ボクのこだわり、ふたたび(7)体力と気力
毎年、夏の後半には疲弊します。長年、診療所に来てくれた人が来られなくなると(誰にでも対応してあげられるわけではないけれど)往診が10年に及ぶ人もいます。しかも「運転免許を取ったことがない」、「自転車にも乗れない」という医者として致命的な弱点のために、外に診療に行く場合にはすべて「歩き」です。駅まで歩いて電車に乗るか、バス停まで行くか、いずれの場合にも公共交通機関を使うため、回り道や乗り換えがたくさんあり、それでもこれまでは「こだわって」行き続けてきました。しかし、ここ数年でしょうか、特に夏の酷暑が身にこたえ、お盆ごろまでは何とか持つ体力が、京都五山の送り火の頃を過ぎると、もたなくなりました。さて、困りましたね~。今やっと戻りつつある感じです。
最近、よく「被害者としての自分」と「加害者としての自分」を考えるようになりました。認知症と言う病気を自分の専門にして28年、自分では支援者のつもりでいても、結果的には自らの処方が当事者に過剰抑制となり、せっかくの日常生活動作が低下してしまうことも数多く経験してきました(医者のブログで書いてはいけないことかもしれないけど、ね)。でも、支援の仕事に就く人なら誰にでも思い当たる点があるはずです。良かれと思ったのに結果が悪くなってしまったことが。
介護を通してその人と家族を支え、より良いQOLを目指す気持ちでいたにもかかわらず、結果的には専門職がかかわったのに介護状況が悪くなったこともあるはずです。そのような時、ボクのような医療者や介護職は、そのことをどのようにとらえるか、地域包括ケアではまさに今、そのことが問われているような気がします。支援しようとしたのに悪い結果になった時、そのかかわりを自責の念に駆られて「自分が加害者だ」と考える事もあるでしょう。一方では「せっかく支援しようと思ったのに、結果的には悪くなって、これでは(専門職である)自分が被害者だ」と思う場合もあるかもしれません。
今回の「ふたたび」はそのことについて、今のボクがどうかを問い直してみました。体調を崩して弱っているときのボクは、「ああ、こんなに努力してかかわっても結果が出ないなら、こっちが被害者じゃないか、こんな面倒なことは嫌だ」と思っていたかも。少し元気になると「そんなふうに考えず、徒労に終わっても支援は続けよう」と思っているボクもいて、人のこころはいつもクルクルと変わるものだと思います。歳をとって体力が低下することからは逃れられないけれど、自分の中にある「あきらめない気持ち」を忘れずにいられれば「ああ、めんどうくさい」と何でもやめてしまうことがなくなります。でもね、気力というと根性論にならないように注意することも大切です。単なるがんばりでは体もこころも破綻しますからね。そのことを心に刻みながら「だめでも、いいさ~」って思える自分でいたいと思いました。