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ものわすれブログ

父の志を受け継いで30年

 30年前の7月31日、父を見送りました。10年ほど糖尿病との闘いで苦労していた父ですが、亡くなる夜まで歯科医師として臨床を続けていました。糖尿病が悪化したあと、これまではスポーツマンである自分を誇っていた父が、免疫低下から帯状疱疹(帯状ヘルペス)を発症し、片足にまひが残ったため、思うように歩くことができず、自信をなくしていました。


 ボクは決して良い息子ではなく、むしろ放蕩息子であったと思います。今となれば恥じ入るばかりですが、当時のボクは自負心ばかり強くて父の言うことを聞かない親不孝者でした。それでも父が「一生、足が思うように動かないんや」と嘆く姿を目の当たりにして、何かできないかと考えた末に、父親と近くの商店街に散歩に行くことにしました。散歩の中でこれまで話ができなかった多くのことについて父と話しました。

 「お前は歯科医になった後に、医師になった。俺はそのために必要なことを支援してやれて嬉しい。その分、一生、お前は俺みたいに体が言うことを効かなくなった者の声を聴き続けてくれ。哀しみを見捨てない医者になってくれ」と父は言いました。


 あれほど健康面に自信を持っていた父なのに、自信が一気に低下したのだと思いました。ボクはかつて父の期待に反して自律神経のバランスが悪く、期待に沿うことがない「ひ弱な息子」でした。父はそんなボクに助けを求めてきました。夜間診察が終わった後に、父とゆっくり商店街まで歩くことができた経験は、ボクの原点になったと言っても過言ではありません。

「どんなに強い人でも、自分の力に限界を感じるときがある。それならひ弱なボクでも、その人の弱さを責めることなく、その『弱い状態のその人』に寄り添うことが大切だ」と思うきっかけでした。


 そんなふうに父と息子との関係性を今一度考え直していた1992年7月31日のこと。大学の精神科医局に入局して2年、ボクは36歳になっていましたが、それでも医局ではまだ若手、新しい医局員が入らないこともあって、いまだに一番下っ端の医局員をしていました。臨床研究は誰にも負けないという無謀な思いがあって、老年精神医学会に発表すること、フィールドの研究をするために、その年の夏は横浜にいました。子どもたちに満足な「夏休み旅行」をさせてやることもできず、妻が「せめて横浜の『そごう』百貨店の屋上遊園地に行くだけでも、夏休みを体験させてやりたい」と訴えた声を聞き、研究と家族旅行を兼ねて横浜に行ったのが、7月30日でした。

 夜の山下公園は涼しくて、芸人さんの風船のパフォーマンスもあり、質素な夏休みにもかかわらず、娘と息子はその旅行に満足してくれたようでした。


 7月31日の早朝、確か5時半ごろだったかと思いますが、ボクの携帯電話が突然鳴りました。「何だろう、こんな早い時間に」と思いながら電話を受けると、先には母の声、「一生、おやじさん、今朝、亡くなったわ」と母のつぶやき。糖尿から抑うつをくり返した父には心肥大もあって、急性心筋梗塞で人生を終えたのでした。ボクはしばし今の電話が何の話か分からないまま、時間だけが過ぎていきました。夏休みの思い出に、家族には「サンリオ」の遊園地に妻と行くように指示して、ボクは新横浜に向かいました。早朝の横浜、中華街を横切ってタクシーを見つけ、新横浜から新幹線に飛び乗って新大阪から旭区の診療所(兼、両親の自宅)に戻るまでの記憶が、いまだにありません。


 あれから30年、ボクは父から託された命題を求め続けながら、この30年を生きてきた気がします。

どうすれば、目の前にいる認知症当事者や家族の気持ちを理解し、共感的な医療体制を続けられるか、ボクの人生の「役割」が決まりました。

 亡くなる日まで臨床医としての自分をつらぬき、自分が人生を終える様から息子に「臨床医はこのようにして人生を終えるのだ」と生きざまを残して父は逝った気がします。それから30年、この週末、ボクは歯科医の先生方に認知症対応力向上研修の講師を務めさせていただきます。


 父に語りかけるように、自分に言い聞かせるように、ボクは自分にできる事を先生方と分かち合いたいと思います。父に言いきれなかった自分の思いを聞いていただくことによって、ボクは30年後の今、父と対話しているような気がするのです。




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