2017年4月から朝日新聞デジタル版・アピタルで

「認知症と生きるには」というコラムを執筆中です。

http://www.asahi.com/apital/column/ninchisyou/

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ボクのこだわり(10)天からの声が響く。

妻の介護をするようになって4年弱、これまでのボクなら講演や講義で「忙しく飛びまわっている」ことで、何らかの達成感を持っていたのですが、日々の介護が淡々と続いていくなかで、閉塞した空間の中にも、新たに見えてくる世界があることに気づきました。 自動車免許を持ったことがないため、高級車に乗るという趣味など持てるはずもなく(乗りたいとも思いませんが)、美食家でもなければ夜の街に飲みに行くことは皆無、ゴルフはしたことがなく、野球はルールも知りません。 そんなボクでも、(アクリル絵の具や油彩で)絵を描くこと、パラゴンというスピーカで音楽を聴くこと、本を読み、執筆すること、講演会に呼ばれて話すことなど、いくつかの関心領域があったのですが、それが単なる趣味や仕事ではなく、今の日々を、まるで「天からの光が降り注ぐかのように」支えてくれることに気づきました。 あたりまえのように聞いてきたサイモンとガーファンクル、吉田拓郎、中島みゆき、さだまさし、平原綾香、竹原ピストル…、 よく知っているはずの朝比奈隆(大フィル)のブルックナー7番も初めての曲かと思うほど、違って聞こえます。 何だ?これは…。これまで介護でガチガチだったけど、改めてこんな日々にこそ、音楽がとてつもない「救い」や「支え」をわが身にもたらしてくれます。 コンサートに行けず(妻の食事の買い出しのため)クラシックはマチネー(昼間の公演)しか行けません。せめてCDを聞くときにはイアホンではなく、スピーカーから音を出して聞いています。今の気持ちがそうさせるのでしょうか、これまで聞こえてこなかった歌詞の意味、作曲家、演奏家が伝えたいメッセージが、

ボクのこだわり(9)セカンドオピニオン

先日の事です。もう何年も首の後ろの不快感を訴え、大病院や大学病院での精密検査をくり返してきた軽度認知症の女性と、その夫が来院されました。ご主人が言いにくそうに「先生、もうし訳ないけれど、妻の知人が○○の脳外科に行ったらどうかと教えてくれたので、そちらにかかっても良いですか?」と恐る恐る聞いてこられました。 これまで、いくつもの大病院での精密検査でも何も出なかったことは事実です。そして彼女が「物忘れ」は軽いものの、その分、不安感や心気的(どこかに悪いところがあると感じてしまうこと)になってしまっていて、いわゆるドクターショッピングをくり返してきたことも事実です。 ボクはそのご夫婦とずいぶん協力してきました。これまで5回を超える他院の精密検査のための紹介状を書きましたが、ボク自身はセカンドオピニオンには大賛成で、誰か別の医師の診断や考え方を知って、患者さんや家族が納得いく医療を受けるべきだと常々考えているからです。 25年前には状況が全く異なっていました。かつて当時はまだ珍しかったセカンドオピニオンを求めてこられた患者さんと家族に「紹介状、喜んで書きますョ~」、「それでしっかりと診断が間違っていないかわかれば安心ですもんね~」と(実はボクも別の先生の意見を聞くことで安心できると思い)、喜んでいたら、当時の大学病院での先輩から「お前は医者としてのプライドがないのか、大学病院が自信を持って診断しなくてどうする!」と叱られた記憶があります。 今でも気持ちは変わっていません。患者さんは自分の体やこころを託すのですから、ひとつの考え方だけではなく、いくつもの視点から「この先」を決定すること、

ボクのこだわり(8)48年前の父の時計と万博

48年前、父がボクをスイスに連れて行ってくれた時に買った時計(遺品です)をつけています。古い時計なので何度もメンテナンスをくり返し、時計屋さんに持っていっても「きれいに使っていますね、48年前のものとは思えない~」と言ってもらえます。 旅行中に父が突然、「スイスに来たんだから時計を買って帰る。これまで20年ほど開業医として頑張って来たから、その記念のつもりで!」と言い出しました。 ボクはその時14歳、親への反発もあったのでしょう、それに高価な時計を買うことへの抵抗もあったためか、つい「そんなもの買わなくても…」と言ってしまいましたが、父を見送った今、ボクはその時計を愛用しています。 先日、大阪での万国博覧会の象徴であった「太陽の塔」が、内部の修復を終えて一般に公開されるニュースを目にしました。大阪生まれのボクにとって「太陽の塔」は子ども時代に初めて世界を感じさせてくれた万博の大切な思い出です。確か16~17回、会場に言った記憶があります。時には友人たちとわいわいやりながら、時には夕刻から夜にかけて一人で行きました。 あ、万博があったのが1970年、時計を父が買ったのも1970年。当時の記録ビデオなどを見ると、今とはたいへん異なる街並みや人々の姿が映っています。 「今、腕に付けている時計はそんなに古い感じがしないのに、人々の姿は変わったのだろうなぁ」と思いました。 そういえば当時、母の患者さんが肺がんになって、家族から「絶対、本人には内緒にしてください」と言われ、母はその人を在宅で見送るまで病名を口にしなかったことを思い出しました。 現在とは医療水準も異なり、社会の考え方も大きく

ボクのこだわり(7)東日本7年・4年ぶり外泊

誰もが忘れることのない3月11日、今年のボクは夜9時に渋谷のホテルにいました。妻の介護が始まった2014年のGWから京都の自宅で夕食を作れなくなり、ボクの仕事が終われば京都に戻って妻と外食をし始めました。でも、そんな日々が続くわけはありません。気分の沈みと不安が強くなった妻を、仕事をしている大阪の診療所の上階に住ませ、毎日夕食を準備し、夜は必ずいるという生活が始まって3年と10か月、ボクはこれまでの診療+講演生活から180度異なる生活になりました。 「夕刻以降は必ず家(大阪のほうですが)にいること。」、「夜の会合や学会活動で遅くなることにも参加しない」、「ましてや講演会のために前泊することなどもってのほか」と妻は言います。 不安が表面化して強迫的になる妻が安定するように、ボクはその生活を守りました。講演も行ける所が限られますので、ずいぶん依頼が減りました。その変化は思ったよりもボクのこころを痛めつけ、しばらくの間は、そうやって変わっていく自分の人生にはもう先に可能性も新しい展開もないという絶望感を持っていた時期もあります。 病気が違ったとしても介護するひとなら、この感覚、ご理解いただけると思います。「家族の介護が始まったのなら、家族が介護するのがあたりまえ」と、経験のない人は言うでしょう。でも、先の見えない介護を担うことになった家族は、自分の夢をあきらめ、先に予定していた人生や、いま、必要とされている仕事から、「突然の介護者」になるのですから、こころの準備も何もあったものではありません。 4年近くになり、半ばそういう生活にも慣れてきて、前回に書いたように毎日同じように午後8時3

ボクのこだわり(6)こだわって風呂磨き

妻には、決まった時間にきまったことをしなければパニックになるという、介護者のボクにとっては大変な「こだわり」があります。 そのため朝は5時に起きてその日の妻の昼食の焼き魚をつくり、朝食。診療が終われば買い出し(娘も息子も診療所スタッフも助けてくれますが)、夕食は5時半から6時まで。午後8時30分には入浴のために湯船にお湯を入れること、これが1日の「マスト」で、この時間配分の中で診察、往診、講演、(学会の)会合などをこなしています。誰が見ても「そんなことぐらい本人が自分でできるだろう」と思うことのように見えますが、妻は自ら実行することができません。 先日、毎日つづく風呂のお湯張りをしていて、あることに気づきました。うちの診療所は1981年に5階建ての部分が完成し、その上階が妻の介護場なのですが、父が思いを込めて作ったタイル風呂があります。ユニットバスに入れ替えたいのですが、ボクには父が糖尿からヘルペス(帯状疱疹)になり、その後、左足の坐骨神経が痛んで歩きにくくなった時に付けた手スリの思い出や、母ががんの末期に「明日は入院日」という日に、長年勤めてくれた女性スタッフが何人も手伝ってくれて、母の最期のシャンプーをした思い出があって、なかなか作り替えることができない風呂場なのです。 風呂オケもざらざらになり、「さすがにホーローも35年たつとだめだな」と思いながら、妻の入浴に合わせてお湯を入れながら、ふと、娘が買ってきてくれたブラシで風呂をこすってみたところ、それまでは元から傷んでいたように見えた風呂おけの下から、つるつるしたホーローの面が見える部分が出てきました。 これまでこちらが勝手