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ものわすれブログ

ボクのこだわり(1)23年目の1月17日


 もう23年にもなるのでしょうか、阪神淡路大震災から。その後も中越地震や台湾、そして東日本大震災や熊本地震、あれからも大変なことがたくさんありましたが、阪神はボクが精神科医になって初めて本格的に「社会的使命」を感じた時でもありました。

 あの朝、いつもなら5時に起きて京都の自宅から大阪の診療所まで1時間半かけて行くのですが、地震の余波が残るなか、京阪電車の丸太町駅に行きました。何度かの余震があって、大阪に着いたのは昼前だったと思います。当時は今の診療形態とは異なり、認知症の人の診療はメインでしたが、それ以外のメンタル領域の人達も受診しておられました。うつ病、統合失調症、不安障害など、少数でしたが。

 テレビの画面を大学病院の医局で見ながら、「これは大変なことになった」と思いました。当時は急逝した父の跡を継いで診療所の理事長をしながら、大学病院にも何日か行くという勤務形態でしたので、早速、医局で「何かできないか」との提案をしてみましたが、大混乱の真っただ中です。大学として支援体制を始めるには、まだ時間がかかることがわかりました。

 しかしボクは一方では開業医として診療もしています。当時、神戸、西宮や芦屋から数人の患者さんがうちの診療所まで来てくれていました。とっさに思ったのが統合失調症の何人かの患者さんたちの事でした。今とはことなり、病気がある程度進んでから受診してきた人も多く、毎日の服薬がきっちりとできていることが状態の安定には不可欠でした。しかし、テレビでは市民病院さえ倒壊しています。「大阪から行けないから、そちらの医療機関で薬を調達してくださいね」とは言えない状況でした。

 地震から2日目の1月19日、あの日、ボクは薬局にあるすべての向精神薬をリュックサックに詰めて、朝5時に診療所を出ました。何を考えていたのか、いまでも不思議に思いますが、とにかく担当する患者さんの手元に薬を届けるのが、今の自分の「こだわり」だと思いました。

 大阪から自動車で行くなんて考えられません。もちろん渋滞が激しいこともありますが、それより何より、ボクは自動車の運転免許を取ったことがないのです。恥ずかしいことに自転車にも乗れません。行ける所まで電車で行きました。兵庫県尼崎市に入ったあたりで電車は止まっていました。

 それからは、ひたすら「歩き」です。

 JRの線路を枕木の上に沿って歩き、夕方前に神戸、三宮の花壇の所で患者さんたちと出合うことができました。彼らも何時間もかけて合流しました。それから半年間、毎週水曜日にはリュックに背負った薬と共に、神戸の患者さんと会うために出かけることになりました。

 少しずつ電車が再開し、薬の調達がかの地でもできるようになるまでの半年間、ボクは精神科医として彼らと人生を分け合った気がします。

 多くの災害に出会うとき、病気があること不都合を感じる人はたくさんおられます。高齢者として人の手を借りなければならない人も。

 後の東日本大震災では若年性認知症のために避難所で「こんな人のためにわれわれが迷惑を受けるのは困る」と他人に言われた仙台の介護家族もいました。

 人は困難な時にこそ、その人の本質が見えてきます。

 あれから23年、ボクは医者としてカッコつけているだけでなく、本当に一人の人間として助けを求めている人に共感を持てているでしょうか。


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