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ものわすれブログ

日々を生きる(4)そばにいて見送ること


 結婚して1か月後に脳梗塞で倒れた母方の祖母、内科医として忙しかった母の代わりにボクを育ててくれた祖母が、あろうことかボクの結婚式の疲れからか、新婚旅行の最中に倒れました。マドリッドで友人に妻を紹介していたときに日本から連絡があり、急きょ予定を変えて帰国し、結婚式から1か月後に見送りました。34年前でした。

 二人目は父です。糖尿病になってこれまでのように体がいうことを利かなくなり絶望感にとらわれた父を支えようとしましたが、ボクが横浜に学会出張した夜に心筋梗塞を発症し、10分で急死しました。7月31日の暑い横浜から戻るとき、あっけなさと強烈な後悔の念を持った自分を26年たった今でも忘れることはありません。

 極めつけは母でした。末期がんを外科医の友人が執刀してくれて3年半の時を医師として患者さんを診察できましたが、亡くなる1か月半前に母校の関西医大病院に入院し、60年におよぶ外来に終止符を打ったのが東日本大震災の年でした。

 もう時間がないとわかった6月12日の前日、次の日に香川県の講演に行かなければならいため、ボクは娘といっしょに母に別れをするために病院に行きました。万一、急変があるかもしれない予感があったのでしょうか。講演当日の早朝、母の酸素濃度が急激に低下し危篤になった時、ボクは四国に向かう途上、岡山の手前で新幹線に乗っていました。

 とてつもない豪雨のなか、新幹線が岡山駅にすべり込む直前、大雨の中に小さな虹がかかるのを見て「母は今、逝ったのだろう」と確信したことは、拙著(認知症家族のこころに寄り添うケア)に別の人の話として書かせていただきました。

 こうして考えると、ボクは母代わりの大切な祖母の臨終にも、苦労をかけた父親の急逝にも、そして母の時も、まさにこの世から旅立とうとしているとき、傍らにいることができませんでした。すぐ倒れてしまう医者です。根性もなく大変なことからは逃げてしまう自分がいます。それでなのかな、大切な人と最期までよりそうことができないのは・・。

 「治せなくても寄り添いなさい」という声が今も聞こえます。「お前が寄り添うことが、その人や家族のためになるなら、それは無力ではなく限りない救いだ」とも母が語っているように思います。自らも驚くほど弱い自分は、この60年を通して誰よりも知っています。しかし、それでも「人の手助けをする人生を送ろう」とこころに決めたいと思います。患者さんたちに、その気持ちは伝わるかな。

 あなたが望むのは、認知症を治してこれまでと同じような人生を家族と共に歩んでいけること、それは痛い程わかっています。反面、魔法の治療法がないことも、認知症医療に限界があることも認めましょう。でも、家族を次々に見送ったボクには、ひとつの決意があります。

 ボクが困り果てたときには患者さんの顔が浮かんで、最悪の時を回避させてくれたように、あなたが逝くときに一人で心細い思いをしているなら、たとえ傍らにいなくても、あなたの中にボクの顔が浮かぶような存在であり続けたい。

 支えあいながら、人生を一緒に歩きましょう。


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