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ものわすれブログ

診療にて(4)自分の態度を後悔する


 歯科医になった時にも医師になった時にもケアマネジャーの試験に合格した時も、そして大学の教員になった時も、「ボクはこんな自分で良いのかな」という思いがありました。自信がないのとは異なる気持ちで、「こんな自分が人の支援をしても良いのかな」という気持ちです。とくに精神科医として認知症の人や家族に向かうとき、ボクの一言が、この先、この人々の道を決めていくと思うと、責任とやりがいを感じる一方で、ことの重さをひしひしと感じます。

 よく医療機関が「あなたが患者さんとして決めてください。でなければご家族が」と言って、何も意見を言わなくなってしまった時代だと言われるようになりました。○○病院で手術の承諾書を書き、その前に説明を受けたけれど、最後の決定は本人や家族がした、という場面が増えてきたように思います。 

 確かにひと昔前には(一部ではありますが)医師が「何も言わずに任せておけばよい」と言って、本人や家族の意見を聞くことなく、手術や治療を決め、それに従わなければならなかったころ、当事者や家族の気持ちは尊重されなかったこともありました。「任せておけ!」と有無を言わさない様子で家父長的にものごとを決めてしまうことをパターナリズム(家父長主義)と言います。ボクは関西医大の医局に入局させてもらってからず~っと、この家父長主義ではなく、患者さんとなったその人や家族が納得いくまで説明して、その次に自ら主体性をもって「どうしたいのか、何が希望なのか」を聞くトレーニングを先輩方から学ぶことができました。手前びいきに聞こえると恥ずかしいのですが、入局した当時の関西医大にはそういった大切な雰囲気が漂っていて、その先輩方の指導にずいぶんと助けられ、今日のボクの臨床があると思っています。

 先日、初診で来院した患者さんの娘さんが、ある病院で認知症の検査を受けて、いざ治療を始めるときに、そのようなパターナリズムに傷ついて、その病院への通院をやめてボクのところに来たという話をしてくれました。

 ドキッとする一瞬です。うちはそのようなことはしていないかな。できる限りそのようなことがないように、受診した患者さんや家族にはできる限り説明し、納得を得られてから診療したいと本当に思っています。しかし時間がない時や自分の決定に自信がない時、ボクは自分では「このまま突っ走ろうとしている自分がいる」ということを自覚しつつ、それでもことを押し通そうとすることがあります。

 (受診する人や家族が不安になりそうなので)ブログで書くことではないことかもしれませんが、ボクにはそのような傲慢な時が確かにまだ、残っています。いつになっても未熟なのかもしれません。

 さらに先日、ある認知症の患者さん自身から言われた言葉があります。その人はもう9年、診療所に来つづけている男性なのですが、ある日の診察の際に「先生、忙しすぎるのはあんたの中の医者こころを殺すで、ゆっくり行きや」と言って診療室から出ようとしました。慌てて「何か気になることでも言いましたか」と聞き直したところ、彼は「前にはもっと患者さんが少なくて、先生はよう話を聞いとった。今は忙しすぎるのがこちらにわかる。誰のための診察かわかってるか」とひと言。へこみました。ご指摘の通り、出張のために時間を気にしてゆっくり聞かず、ややもするとパターナリズムになりがちなボクのその時の発言を、彼は鋭く見破ったのです。

 認知症の人は知的な判断や記憶が難しくなる半面、感性はとても鋭くなる人もいて、目の前にいるその相手が何を考えているか、鋭く見抜かれることがあります。その日の彼もそうでした。

いけない、いけない。彼のための診療をしているのに見失うところでした。できればこれからはボクの目の前に来る認知症の人が、こちらの雰囲気で落ち着くような臨床医になれればな、と思う日々です。


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