日々のこと(9)介護の毎日を生き抜く
- 松本一生
- 2017年3月10日
- 読了時間: 3分
ボクたちみんなは人生という短い時間をもらっていて、それはあっという間に終わってしまうほどはかないものなのですが、その限られた時間を「自分が生きた」と思えるように努力し、余った部分では自分だけではなく、人のためにも何かを成し遂げた人生だったと思えるように生き抜くことが大切だと、最近、思うようになりました。
医者という仕事についていて、しかも認知症と言う簡単には治らない病気、いやむしろ難しい病気を持つ人と、その人と人生を送る家族を「支援する」という役割を果たしながら、その一方で妻が介護を受けなければならなくなった現実を受け入れ、それでも頑張っている介護家族を演じることには、多大なエネルギーが必要です。
ボクのような人間には重すぎる課題があって、それでも医者として、介護家族として、現実を生きる個人としてなければならないという人生からの問いかけに対して、自分は本当に応えられているのだろうかというこころの中からの問いかけが毎日続いています。
そこから解放されるには人生をあきらめる選択か、それとも宝くじが当たって7億円の資金が手元にあり、当面は経済的に何も心配することはないという恵まれ状況にならない限り、ボクのは目の前からなくなることはありません(笑)。
それでも夢を追い続けるための原動力はどこに求めればよいのでしょうか。たとえば認知症になったことを告知された人が「なお、生きる意味」を見出すことや、本人に認知症の自覚がなくても介護家族として課題をともに背負い、自分の人生を介護にささげることになった介護家族が、そのような状況下にあっても「人生には生き続けていくだけの意味がある」と悟れるようなメッセージを送ることができれば嬉しいと思います。たとえ地球に自分がただ一人の生存者になって誰にも自分がしたことを知ってもらう機会がないとしても、それでも何か『善きこと』のために努力を続けることができれば、その人の存在には意味があります。
日々の介護を続ける皆さん、それは今のボクの姿にも重なる「家族の風景」なのですが、そんな介護の日々の中に、何かしら明かりが見えるときまで、ボクはこのブログでの発信をやめることはありません。泣きたいときには泣き、大声で叫びたいときには声を上げ、私たちの日々は続けられるものです。声を押し殺して自分の運命を受け入れる必要はありません。そんな時にボクのこころはいつも介護する家族とともにあります。
泣きながら、わめきながら、それでも介護の日々を送る人にささげたいと思います。あなたがいるだけでこの世界は意味があります。かつて元気だった人が病を得て今の姿になったとすれば、その姿も含めて「その人」であると説きたい。ボクの願いはあなたに届いているでしょうか、介護を受けている妻に、それを助けてくれる子供たちに、そして誰よりも同じように介護を続けることを通して人生に意味を見出そうとする介護家族の友に…、これからもメッセージを届け続けます。
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