日々のこと(5)生きにくさと向き合う
ボクには若いころ「自分が発した言葉で誤解を生んだらどうしよう」と迷いながら言葉を出したら、最も不適切な発言をしてしまい頭を抱えるようなことをくり返した思春期の一時期がありました。講演することが趣味のような今からは考えられないのですが、かつての自分とはずいぶん人生を重ねていくうちに性格が変わったようです。いや、人生を通して何かがボクを変えてくれたのかもしれません。
当時、カトリック教会の仲間の一人で、とても信頼している先輩がいました。その人が専門学校に入るために、今後は大阪を離れて教会には来られなくなるということを知り、悲しくて悲しくて仕方がない一方で、その人に最大のエールを送って自分がこころから応援していることを伝えたくて、思い切って発言してみました。
「せ、先輩、受験ダメだったらいいのに」
その場の空気が凍り付きました。ボクももちろん、受験に失敗してくれたらいいなどと思ったことはありません。精いっぱい、万感の思いを込めて「先輩、これまでありがとうございました。でもボクらはみんな、(たとえは悪いけれど)先輩が受験を失敗してでも、もう1年こちらにいてほしいと思うくらい、あなたがいなくなってしまうことが寂しいんです」と伝えたかったのです。
あれから50年、少しは「言葉足らず」にならずに、皆さんにメッセージを届けられるようになれたでしょうか。
脳に原因があって言葉の表現がうまくいかない人もいます。側から見るだけでは「言葉足らず」に見えても、病気の変化から症状が助長されることがあります。側頭部の抑制が取れて「タガがはずれるようになり」、思ったことを吟味することなく言葉に発してしまうようになる人もいます。一方で発達障がいや高次脳機能障がい、微小脳梗塞によって、これまでのその人とは異なる性格面やコミュニケーション能力の変化に悩む人もいます。いずれも「生きにくさ」と向き合いながら、それでも人生をあきらめない人びとです。
認知症の人、普段の生活ではわからないほど社会に溶け込んでいるにもかかわらず、自身の内面で苦悩している人々に、ボクは診察を通していつもメッセージを送り続けています。「生きにくいのはあなただけではないんだよ、みんな同じなんだから」ってね。生きにくくても、生きてみ。伝えられにくくても、伝えてみ。何かがあなたを変えてくれるかもしれないョ。
認知症という病気と向き合っている人、その家族、その人を支えたいと願っている支援職のみなさん、誰もが「人生は生きにくい」と感じながら、それでも自分に与えられた人生を精いっぱいに生きることを模索しているのだと思います。病名を告知されてこれまでとは全く異なる世界を生きる事態になったとしても、それは必ずしも「敗北」ではありません。その事実を知った後に、「それでも持つことができる希望や将来の夢」を持ち続けることができることを、これまでの臨床経験からボクは教えられてきました。認知症は「なってからが勝負の病気」、あきらめないところから希望が始ます。