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ものわすれブログ

ゆれる気持ち(1)掲載1年経過


 あっという間にこのブログを掲載して1年(9月5日で)がたちました。自分のことも、そして専門にしている認知症医療やケアについてボクのゆれる気持ちを綴りましたが、みなさんの参考になったでしょうか。認知症を支える立場にいても、日々の臨床や妻の介護によってこころが乱れること、悩むことは尽きません。毎日を過ごすことは「それでも今日もまた生きてみるか」という意思の積み重ねなのでしょう。

 若いころから自分がうまくいかないとき、自分が思ったような力を出せないときに、ボクはいつもこんな風に考えました。「今日、うまくいかなくても、明日はよくなるかもしれない。一気に思うようになる人生ではなくても、今日より明日に希望があり、たとえ交代することがあっても、日々、少しずつ良くなると思えば、人生の先には明るさがあるかもしれない」、と。

 年月が過ぎ、若くはなくなってきたボクも、ついこの間までは同じように考えていました。ところがその考えを一変させられる出来事が起きました。妻の介護です。何度も書きますが、妻は何もできないのではありません。長くは歩けませんが、ホームヘルパーさんに同行してもらえれば商店街までの往復は歩けます。療養していると言っても、家の中では自ら食事もでき、簡単な洗い物などはできています。肝心な「自発的に何かをすること」ができず、これまでやって来た日々の買い出しや献立が全くできなくなってしまったことで妻も人生の目標を失いました。

 認知症の人も、かつては難なくできたことができなくなる「喪失体験」をくり返します。人は自分ができていたことに自信がなくなり、できなくなってしまうと、自信を無くして「「できない」自分にとらわれてしまうものです。それにもかかわらず希望を持ち、先に明かりを見出すことをボクはずっと語ってきました。自分の精神療法の支柱と考える心理教育的アプローチは、「いろいろと課題はある。そんな自分でもこんなこともできる」と自分が失いかける自信をサポートする心理(精神)面を力づけようとします。

 それは何も病気を持っている人だけに限らず、これまでできたことがうまくいかなくなって自信をなくしかけている人にも適応できることです。言いかえれば歳を取ることによって、これまでのように「今日よりは明日に希望をつなぐことができる」人ではなく、「この先、歳をとってできなくなる」と不安になっている人や、先の人生に限りがあることで虚無感を持っているボクらの年代にもあてはまることなのでしょう。

 しかし自分でこのブログの1年(介護は3年)を思い返してみると、少なくともボクは妻の介護を始める前まで、無意識のうちに見ようとしなかった課題に直面せざるを得なくなったのだと思います。いつまでも「ボクにとっては、日々、上に向かって行けるのかも…」と思いこみたがっていた自分がいて、それを妻の介護という現実が見事に打ち砕いて「現実を見ろ」と突き付けてこられたような感じがします。

 しかし、未来に限界があろうとも、認知症で限界があっても、それでもボクらは人生を「捨てたものじゃない」と感じられるようです。ボクはこの1年、少しずつ感じる日々が増えてきました。次回以降この感覚をテーマにしていきます。これって認知症と向き合うだけではなくて、人生そのものと向き合うときの「考え方」のコツでもありますから、ね。


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