ものわすれブログ

日々のこと(4)祈ること

01/15/2017

 カトリックの家に生まれました。教会にも行きました。洗礼名も持っています。アンドレアと言います。あんどれあーいっしょうーまつもと、です。 全く海外とは関係ない日本人なのに変でしょ(笑)

 どの宗教が良いとか優れているとか、そのような宗教論を語るつもりはありません。宗教はその人が背景として生きてきた、いわば文化のようなものだと思っています。最近、町で出会うことが増えたイスラム教徒の皆さんの信仰への真摯な態度に限りない敬意を覚え、日本を作って来た神道や仏教の優れた面に尊敬と共感を覚える自分がいそれでも自分はカトリックを背景として生きてきました。多くの皆さんが(たとえ意識しなくても)檀家さんであるようなものです。

 

 ボクの身の回りには「祈り」がたくさんあふれています。くり返しますが宗教的な話ではありません。その祈りは認知症という病気がメンタル面に影響することがあるため、認知症の人は「その人ではなくなる」とか、「その人が壊れていく」などと言われながら自分と向き合わなければならない日々を送っていると思います。

 しかし認知症という病名が持っている負のイメージとは異なり、鮮やかな感性のなかで、ボクは彼らが家族や友人への思いにあふれていることをこれまでの臨床で見てきました。それをうまく表現できないだけなのです。多くの人たちは認知症という自らの病気を受け入れるまでに、何かしら祈りに似た言葉を思い描くのでしょう。

 「自分が祈ればこのような病気ではなかったと、神や仏が許してくれないか」という気持ち、そして「誰かに祈ったらこの病気から解放してもらえるだろうか」との願い、そして「目の前の医者はわたしの認知症を真摯に治そうとしているだろうか」という切なる願いなど、万感の願いや祈りがこちらに伝わってきます。

 

 ボクはこれまで少しはその気持ちに応えることができたでしょうか。

 

 これまでに何度か医者をやめようと思ったことがあります。本人や介護家族が追いつめられた時に、「自分がいかに無力か」と思い知った時でした。その時、いつもボクを引き留めてくれたのは認知症の人でした。「あなたが無力でも許そう」「あなたが医者という支援者として、この先も続けられるようにこころから祈っている」というメッセージをくれた人もいます。自分のことと同じくらいに、期待に沿えない医者を支えようとしてくれた人たちがいました。亡くなった認知症の患者さん、悪化して以前のようにコミュニケーションができなくなった認知症の人たち、それでもボクは以前と変わらずあなたの祈りに応えようと思います。あなたの祈りは続き、家族を思い、ボクを支え続けてくれる光です。

 

 昨年末、ずっと関わらせていただいたレビー小体型認知症の男性が亡くなりました。大阪大学のお二人の先生から引き継ぎ、何年も闘病した人でした。ボクはあなたの祈り、奥さんやご家族への祈りを決して忘れないでしょう。

 

 

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