2017年4月から朝日新聞デジタル版・アピタルで

「認知症と生きるには」というコラムを執筆中です。

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​朝日新聞(デジタル版)お知らせ

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日々を生きる(7)長い別れ・天空の花火

大阪の街が天神祭り一色になる7月24日、長く認知症と向き合ったある男性がグルーホームでひっそりと旅立ちました。苦しむことなく最後の息を終えたと聞きました。 7月17日は京都の祇園祭の前祭り(さきまつり)、24日は後祭り(あとまつり)、25日は天神祭りで奉納の花火大会があります。 一年でも最も華やいだ季節は、冬と並んで認知症医療にはもっとも気をけなければならない季節でもあります。冬には寒さのために血圧が変動しやすく、高血圧から脳内出血に気を付けなければならないことや、部屋の寒暖の差、着替え室と浴室の温度差や湯船の温度などから倒れてしまう「ヒートショック」に注意が、夏には脱水が起きることで脳梗塞にも大変注意が必要です。急激な暑さや7月のゲリラ豪雨、低気圧の近づく際の体調急変などに加え、夏に食事がとれなくなると体調を崩してしまうひとは少なくありません。 もう何年も何年も前から、その人はボクの外来を定期的に受診してくれていました。ご本人が飛行機好きだったこともあり、時には空港に見に行った話、着陸しようとする飛行機を見ることが楽しいと、話をしたものでした。 グループホームに入ってからは自発的な言葉が出にくくなりましたが、それでもボクが訪問するたび、「ここから飛行機が見えますか」といった話を続けてきました。その人が今年の春に体調を崩しました。初夏から続いた混乱は収まったのですが、それと入れ替わるように少しずつ生命力を使い果たし、長い別れの夏となりました。 彼が認知症と向き合った何年もの間、その人を支え続けた家族がいます。日々くり返される介護の日々をよくぞ限界まで続けてこられました。そして彼

日々を生きる(6)腰との勝負、熱湯との闘い

23日の日曜日、石川県加賀市の、認知症の人と家族のための「幸の会(さちのかい)」の総会記念講演に行ってきました。あいにくの雨と蒸し暑さのなか、会員の皆さんと市民の方々にお越しいただき、認知症を地域で支えるための話をしました。「いつも日帰り講演なんです。妻の夕食までに戻らなければならなくて…」と、弁明をくり返す、はなはだ勝手な講師を受け入れてくださって本当にありがとうございました。 2002年ごろから石川県とご縁があり、当時の保健所から何度も認知症の市民向け講演会の講師に呼んでいただきました。金沢まで大阪・京都からサンダーバード(特急列車)に乗り、2時間半かけて金沢に到着、そこから高速バスに乗り継いで能登半島の先まで出かけたものでした。今回も「あ、加賀温泉駅なら近いからOKですョ。」と特急に乗ったまでは良かったのですが、あのころとは腰が違っていました。痛む腰と戦いながら往復5時間弱でしたが、この文章を書いている水曜日の朝、腰がガタガタです。 日帰りしなければならないから、との理由で飛行機での移動ができる範囲の講演に限定していたのは、無意識の自分が腰への負担を考え、日帰りで往復しても大丈夫な範囲に限定していたようです。 加賀温泉駅といえばお風呂ですが、実はボクのこれまでの2000回を超える講演会で、観光地には数か所を除いて行ったことがありません。かの地のおいしいものを口にすることなく、駅もしくは飛行場と講演会場しか知りません。これは妻の体調が悪くなかった頃から続いていて、何もケアのせいではありません。観光よりもそこにいる人たちに出会うことをボクは大切にしているのだと改めて思いました

日々を生きる(5)空から見る風景

「君がこの先 歯科医師として使い物になるかどうか、私は不安でがない。内科医として体のことよりも、この先マジメに人生を送れるかどうかが心配だ」と、休学していた当時、歯科大でボクの休学・復学担当の内科医師に言われてから40年が経ちました。病気で休学したのに、なぜかボクを究極のサボりだと思っていたようです。 医者として本当に人のためになっているか、常に考えるのは、その一言がボクのお尻を押してくれているからかな。常にそのことを自らに問いかけながら、気が付くと長い年月が経過していました。 ボクは認知症の事や介護する人のこころをテーマにして、真面目に考えた文章ばかり出していますが、何も一日中、クソ真面目なことだけを考えているわけではありません。 趣味もあります。アクリル絵の具で油絵を描くこと、クラシックのコンサートに行くこと(ただし、妻の食事のために昼間の公演だけですが)、オーディオファイルとして音楽を再生する趣味もあります。 そして何よりも各地で講演すること、さまざまなところを訪れるのが何よりボクの「趣味」です。「講演会のために忙しく行き来して大変だろう」と思ってくださる方もおられると思いますが、実はこの「行ったり来たり」が大好きです。 飛行機が街に近づき着陸する前に、空から眼下に街を見ると、いつも思うことがあります。自分も含めて日々を過ごしている世界が何とちっぽけなのだろうか、そしてそこで悶々としていることが何と「囚われた」日常なのかと自分をみつめる時間にもなります。 もっとも好きなアプローチは北海道(新千歳)から能登半島沖を経て奈良から大阪(伊丹)に戻る経路です。揺れながら下降してき

日々を生きる(4)そばにいて見送ること

結婚して1か月後に脳梗塞で倒れた母方の祖母、内科医として忙しかった母の代わりにボクを育ててくれた祖母が、あろうことかボクの結婚式の疲れからか、新婚旅行の最中に倒れました。マドリッドで友人に妻を紹介していたときに日本から連絡があり、急きょ予定を変えて帰国し、結婚式から1か月後に見送りました。34年前でした。 二人目は父です。糖尿病になってこれまでのように体がいうことを利かなくなり絶望感にとらわれた父を支えようとしましたが、ボクが横浜に学会出張した夜に心筋梗塞を発症し、10分で急死しました。7月31日の暑い横浜から戻るとき、あっけなさと強烈な後悔の念を持った自分を26年たった今でも忘れることはありません。 極めつけは母でした。末期がんを外科医の友人が執刀してくれて3年半の時を医師として患者さんを診察できましたが、亡くなる1か月半前に母校の関西医大病院に入院し、60年におよぶ外来に終止符を打ったのが東日本大震災の年でした。 もう時間がないとわかった6月12日の前日、次の日に香川県の講演に行かなければならいため、ボクは娘といっしょに母に別れをするために病院に行きました。万一、急変があるかもしれない予感があったのでしょうか。講演当日の早朝、母の酸素濃度が急激に低下し危篤になった時、ボクは四国に向かう途上、岡山の手前で新幹線に乗っていました。 とてつもない豪雨のなか、新幹線が岡山駅にすべり込む直前、大雨の中に小さな虹がかかるのを見て「母は今、逝ったのだろう」と確信したことは、拙著(認知症家族のこころに寄り添うケア)に別の人の話として書かせていただきました。 こうして考えると、ボクは母代わり

日々を生きる(3)またも苫小牧

日曜日に日帰りでまた苫小牧の講演に行きました。勘違いしないでくださいね。特に苫小牧市と特別な関係があったわけではないのですが、これもご縁ですね。妻の介護が始まる前には泊りがけで講演に行けましたので釧路や和歌山県田辺市など、25年の精神科医を通じていくつもの地域と交流させていただきました。苫小牧市の認知症フォーラムの研修会で摂氏30度になろうかという暑さのなか、たくさんの市民のみなさまが来てくださって感謝!です。 前にも書いたと思いますが、ボクには日々の臨床医としての役割、講演や大学院の講義、そして出版や論文の執筆という3つの役割があります。臨床の場を大学や研究機関にせず、町中の診療所で親の代から続く診療所に「ものわすれ外来」を作る道を選びましたので、何といっても本来の役目は日々の診療です。でもね、診察ばかりしていて(月~土まで)、診療の質が変わらないようにと自分一人で(代診の先生は置かず)やっていると、あふれてくるものがあります。 それは経過の思わしくない患者さんの家族の嘆きに対する感情である場合も、すぐそこに迫っている夫との別れを覚悟を持って受け入れようとしている妻の決意への共感である場合も、見送った父親の遺産をめぐって、みな善意で介護したにもかかわらず、結局は遺産のことで係争することになったきょうだいの嘆きへの困惑であることも。 医者をしていて、医療のみならず、その人を取り巻くあらゆることを考えた臨床が続きますが、そのような日々が続くとボクも疲れてきます。 それを何とか保たせてくれているのが、各地から依頼される講演会の依頼です。医者になった翌年の平成5年にはじまり、今年11

日々を生きる(2)雨、氾濫、天候

九州の大雨の中にいる友へ。 先の日曜日は北海道での日帰り講演でした。ボクは知らずに行ったのですが、前日に震度5の大きな地震が北海道や九州で起きていました。 4年ほど前でしたか、夏に出張でローマに行っていた時のことです。仕事を終えてホテルに戻り、ホッとしてテレビをつけたときでした。ローマ法王フランチェスコの説教(法話)が流れたニュース画面に次の瞬間映ったのは、信じられないほどの濁流が嵐山を襲っている映像でした。かの地から心配したものです。なぜならその前年には大阪の診療所に短時間で大雨が降り、行き場のなくなった大量の雨水が診療所屋上を溢れて、最上階の5階(ボクの研究室)や4階、3階まで水浸しになった経験をしていましたから。 近年、災害で被害にあう人は増え、災害の規模も年を追うごとに激しさを増していっているように感じます。自分の記憶に残るもので最も古いのは確か第2室戸台風、家族総出になって暴風でしなるガラス窓を押さえ(当時の自宅には雨戸がありませんでした)、一方では少しずつ水かさを増してくる床下浸水が、やがて畳を越してしまうのではないかと心配した幼い日の記憶があります。その後も長崎水害、阪神淡路大震災、中越や能登地震、そして東日本大震災や豪雨、北海道の台風被害、熊本地震(たくさんあり過ぎて書ききれません)、そして今回の九州での大雨です。毎年、どこかで誰かが自然の猛威に翻弄されています。 阪神大震災や東日本大震災の時にはできるだけ早い段階で動きました。阪神の時には若かったこともあり、しかも神戸や西宮から患者さんが来ておられたため、1月19日にはJRの線路を歩いて三宮で薬を待つ患者さんに