9月で介護まるっと10年
忘れもしない10年前、2014年夏に妻が入院し、9月から在宅ケアが始まりました。妻の母を介護して見送ったのが2010年、妻と結婚して3年後から始まったケアが27年続きました。その妻の母の介護が終わった2010年には、すでに内科医だったボクの母は虫垂から始まった大腸がんが手遅れ(一般的な広がりとは反対方向から静かに、自覚症状もなく進みました)であるとわかってから2年半ほどたっていて、その後、母は2011年に他界したのでした。
つまり在宅ケアを続けたボクの介護生活は27年(妻の母)、3年半(母)そして妻10年と重複しながら37年に及ぶことになりました。医者になってから33年目ですから、介護者のボクは医者よりも人生で介護者の経験が長いのです。
昨日、10年ぶりに認知症の介護をする家族を支援すべく1980年に結成された(公)認知症の人と家族の会の懇親会に出ることができました。ボクは妻の母の介護者であった2000年に京都の会員にしてもらってからほぼ四半世紀、この会の会員でもあるからです。
妻の介護があまりにもボクを束縛し、夕刻から本人が寝てしまうまでボクはどこにも出かけることさえできませんでした。大学の医局の勉強会、日本認知症ケア学会をはじめとする所属学会の夜間研修会や会議など、一切の夜間行事に参加することができず、朝から午後2時半ごろまで大阪の診療所で患者さんの外来診療を終えると、すぐさま京都に向かって帰宅し、その道中で妻の夕食の総菜を買い出して帰ること10年、今ではスーパーやデパートの売り場の職員さんたちとも親しく話をするところまで、この「買い出しジジィ」の役割も板についてきました。それと反比例するように、ここ2年、その束縛が少しずつ軽くなってきました。まだ一晩だけ夜間に出かけられる程度ですが、少しボクの気持ちは楽になっています。
これも前に書いたのですが、そんな生活ならこれまで親の代から70年やってきた診療所ではなく、同じ地域ですが新しく小さな診療所を建て、その上階を全くフラットにして妻の介護を大阪でできるようにしようとしたのが3年ほど前なのですが、いざ引っ越しの段になって「そんな話、聞いてないで~」と言い出し、計画は露と消えてしまいました。
日々の生活がすべて介護を中心に回っているのではありません。妻は現在のところ、パーキンソン症状が出ていることと、こだわりが極端に強く、いわゆる強迫症状を出しているために日常生活ができませんが、一般的な入浴や食事などは自分でできます。だから世間でイメージされている「介護」という生活ではないのです。だからこうして10年を何とか過ごすことができたのだと思いますが…。
「松本先生はこんなにケアに頑張っているのに、私なんか妻の介護が全くできていません」と告げてくる男性介護者がおられます。決して間違えないでください。ボクは決して「良い介護」ができているのではありません。「日々の妻の生活が安定するように」手伝えば、あとは結構自分でできる妻がいるのですから。介護保険のサービスは拒否し、ボクが執事化してしまったために本人が何もできなくなってしまった、という感じなのです。これからも介護は続くでしょう。しかしここ2年、少しずつ記憶が低下してきました。
医者としての経験よりも介護者としての経験が長いボクは、こうして認知症当事者の診療を担当し、ケアする家族の心理的サポートを続けています。時に「医者なのに介護者を理解している」といわれることがありますが、そうではありません。介護者である自分が医者になった時、自然と介護や家族のことを考えるようになっただけですからね。
そんなわけで秋には11年目に向かってケアの日々が続きます。仲間の皆さん、お互いに「ぼちぼち」ケアしていきましょうね。
松本先生、ご無沙汰しています。1日だけだけど、夜の外出、出来て良かったですね。