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ものわすれブログ

ボクのこだわり、ふたたび(4)心が痛い!


 京都でつらい事件が起きました。

 ボクが精神科医になってからも、埼玉の連続幼児殺害事件や大阪の小学校事件、秋葉原の殺傷事件など、反社会的な事件がありました。今回のことはまだ何もわかっていないから、軽々に言えないと思いますが、かつて認知症だけを診る精神科医になる前に、精神的な疾患を持つ人々を診ていた時期から思っていることがあります。

 それは凄惨な事件を起こす人が、たとえ精神医療を受診した経験があったとしても、精神疾患と向き合う多くの「善き人々」とそのような人を混同してはいけないということです。精神科の「患者さん」は、そういった犯罪行為や、まして凄惨な事件を起こす人とは全く異なる人々です。認知症の行動・心理症状が出ている人の場合も同様なのですが、精神に変調をきたしただけで「危ない人」という、とんでもない誤解を受けることがあります。病的体験があっても、それを乗り越えて治療し、社会復帰を果たしている多くの人が、事件のたびに「犯人には精神的な病気があった」などとコメントされて深く傷つかれることも多く、こちらのこころも痛みます。

 一般的な精神面、メンタル面の病気と向き合う人は、決して凄惨な事件を巻き起こして反社会性を出す人ではありません。むしろ心優しく、人の気持ちもわかる人であることが圧倒的に多く、一生懸命に社会復帰を目指す人々です。それがわかっているだけに酷い事件と精神疾患をすぐに結びつけるような誤った解釈を耳にすると、とても悔しいです。

重度障害のある人への攻撃や無差別のテロなど、どうして世界中でこのような「方向違いの怒り」から事件が起きるのでしょうか。いつも紹介するユダヤ人精神科医のビクトール・フランクルが強制収容所の中での生活を書いた「夜と霧」とともに、他の著作で残したことば、「あなたがいるだけでこの世界は意味を持つ」、この言葉を自分の価値としてつらぬきたいと思ってきました。このような考え方を持ってフランクルは強制収容所の日々を生き抜き、全ての人に肯定的な人生への「イエス」というメッセージを残しました。

 その崇高なメッセージに対する挑戦のように、他者の存在を全面的に否定し、抹殺しようとする今回のような行為に対して、こころが悲痛な叫びをあげています。負けてなるものか、絶望に。屈してなるものか、あきらめに。もがきながら、それでもこの世界に意味があることを見つけるために、こだわってこだわって、この言葉にこだわって、真理を証明したいと思います。


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