生きる場所(10)それでもね、ボクらはこの世界を生きていくよ
- 松本一生
- 2019年3月17日
- 読了時間: 3分
クライストチャーチのモスク乱射の報道で怒りに満ちてブログを書いていた時、ふと小さい頃のことを思い出しました。ボクはカトリックの洗礼を受けたのが7歳の時でしたが(生まれた時に洗礼を受ける人も多い中、うちの親はボクにある程度の「自分」ができてから洗礼を受けるように仕向けたようです。)、その時、母にあることを聞いた覚えがありました。
自分らしいと言えばまさにボクらしい考えです。「洗礼を受けて祈れば、ボクは人よりできるようになるのか」と母に聞きました。カトリックのご利益(りやく)はあるのか、と聞いたようなものです。その時に返ってきた言葉は期待を裏切るものでした。「いっしょう、おまえが洗礼を受けても幸せになるとは限らないよ」
信じられませんでした。ボクは神の子になるなら誰よりも力を得て、だれと比べても力をもらえると思ったのですが。
しかし厳しい言葉が返ってきました。
「信仰はご利益を求めるものではなく、自分が信じた信仰のある生活の人生を舞台と考えてごらん。それがうまくいくか行かないかはともかく、お前が生きる「生きざま」を通して周りの人が幸せになるように、苦しい時にもお前を導き、人のために生き抜く決意をするのが信仰というものなんだよ」
いい加減にしろよな、おふくろ。それが7歳の子供にいう言葉かよ。そんなことを聞いたらボクは人生をかけて「善き人」として人生を送らなければならないじゃないか。
今でもその時の記憶ははっきりと覚えています。そして62歳のボクは、笑ってごまかすしかない人格になってしまっていますが・・・・。
先日、あるところで認知症の市民啓発のための講演会をしたとき、講演を聞いてくれたある人が、「先生の講演は認知症になった人をどうやって無事にあの世に送るかという話だと思いますが、その話を聞いたわれわれが救われることはありますか」と聞いて来られました。
もっともな質問です。完全に治らない病気であるとして、その病気のことを知って何になるのか、と思ったのかもしれません。でもね、認知症の正しい理解は『力』です。そのことを知って予防に心がけ、目の前にいる認知症の当事者の悩みに向き合うことで、病気の進行を緩和できることもあるのですから。
その質問者の素朴な疑問と「信仰を持った時の利益」のイメージが重なりました。
私たちはみな、死や老化から逃げることはできません。認知症がその恐怖とイメージが重なることも事実です。それゆえ「認知症はなったらおしまい、ならずにすむ妙案はないか」ともがくのもわかります。しかし、人のために生きるための信仰や認知症を正しく理解する情報を持つことは、避けがたい運命がたとえそこにあるとしても、それに対して自分がどうあるかを、人生をかけて示すチャンスにもなる気がします。
人はみな、信仰の場において人生と(神仏にも)向き合い、そして自分の決意を作るもの。認知症の当事者もまた、告知を受けて自分と向き合い、自らの意思をもって決意するもの。その場を尊重し、敬意を払うことは人としての基本だと、今回の事件を受けて改めて思ったョ。
(今年度のブログはこれでおしまい。世間の流行で言うと平成最後のブログってやつですわ。あ、いけない、もう1か月ありました。平成30年度最後のブログですわ)
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