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ものわすれブログ

生きる場所(8)この春、もう8年になるのか


 もう8年もたったのですね。まだ、つい昨日のように思える人も多いはず。2011年は誰もが忘れることのない東日本大震災とそれに続く原子力災害の時。黒い津波が押し寄せてくる仙台空港の中継をリアルタイムで見ながら、3年半に及ぶ手遅れで末期の腹腔内がんとの闘いの最終段階に来ていた母が「こんな風景を見るとは。あの戦争の時の大阪大空襲以来だ。」とつぶやいた日でもあります。そして「こんなことになるぐらいなら、私の残りの命をささげてもいいから、なかったことにして時間を戻したい」とも言った日です。それから3か月後、母は自分のこの世での役割を降りました。

 あの日、ボクは大阪府医師会の「認知症サポート医」研修会に出ていました。講師を依頼されることもありますが、あの日は会場の机に向かって講師の先生の話を聞いていました。その時です、急にめまいが起きて「これはまずい。こんなところで倒れられない」と思い、必死に耐えていたところ、どうも様子がおかしいのです。周りにいたサポート医の先生方も動揺して、ボクとおなじようにざわついています。天井を見るとシャンデリアがゆっくりと揺れているのが目に入りました。その時初めて、これがボクの体調からくる眩暈ではなく、地面が揺れているのだということに気づいたのでした。

 後に目にした横浜のビルの横揺れなど、激しい動きに対して、あの時の大阪はゆっくりと長時間にわたって揺れ続けました。かつての阪神淡路大震災とは全く異なる揺れだったため、地震とは気付かずに10分ほど時間が経過したのでしょう。

 あれから8年、母を見送ってから8年、首都直下地震や富士山噴火、東南海トラフの地震、大阪では上町断層の地震など、数えきれないほどの災害予想が報じられています。熊本の地震、北海道胆振地方の地震も、西日本大水害も経験した私たちは、この先、どうやってお互いを支えればよいのでしょうか。年老いた国民がくり返される災害に年々さらされながら、これも年々苦しくなっていく国の予算や先の見通しがつかない国を守ることなどできるものでしょうか。

 自分の臨床医としての立場と国の立場を比較するのは不遜ですが、それでもこれまでとは違って力がなくなっていく日本と、これまでよりも(妻の介護も含めて)制約を受けていく自分とを重ねると、イメージが重なってしまうんですよね。この感じ、みなさんもわかってくれるでしょうね。その時に「歳を取って、これまでのようにはできなくなる自分」をどのように認められるか、これまでのように「スーパークラス」の国に住んでいると思っていたわれわれが、いつの間にか「ごく普通の国、日本」というイメージを受け入れられるかどうかにかかってくるのだと思います。

 普通だけどどこかきらりと光る日本は高齢者が若者と協力して作らなければなりません。がむしゃらにやって来たボクは、腰を落ち着けて、やはりきらりと光る特徴を持た臨床を続けるつもりです。

 長いようであっという間に過ぎた8年、みんなが阪神淡路を忘れないでいてくれたように、ボクらは東北を、福島を忘れないぞ。

(あの時、仙台に応援に行くボクのために診療所で、母の葬儀の教会でみなさんに託された39万7342円は2011年に仙台空港が再開されてからの応援と活動に活用させていただき、2019年3月11日時点で2万2013円の残金になりました。ご厚情、ありがとうございます!)


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