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ものわすれブログ

仲間として(5)8月12日、33年目の日本航空


 今日は33年目の日航ジャンボ機の追悼の日です。きょうはボクの体調が優れず、本当なら北海道に行くはずを「休養してください」とのお言葉に甘えて、大阪にいるはずだったのに、東京でどうしても対応しなければならない事があって、日帰りで出かけてきました。

 33年前の今日、ボクは関西医大の病室にいるオヤジと話していました。父は日本歯科医師会の役をいただいていた時、週1回の割合で東京に行っていたため、日航機の墜落をより身近に感じていました。「おれがいつも乗っていた飛行機や」と絶句した父はその時、糖尿病と闘いながら歯科医として診療を続けていたのですが、免疫低下のためにヘルペス(帯状疱疹)を発症し、その後のヘルペス後疼痛(神経の痛みです)に耐えかねて、鎮痛剤を大量に服用して胃潰瘍になり、倒れて関西医大に入院させてもらっていたのでした。

(内科医だった)母とボクは、「アホなオヤジやな」とあざ笑っていましたが、いえいえ、父の足に残った痛みはそれほどつらかったのだと思います。

 その病室で日航機の事を知りました。父の知り合いの先生のご家族もあの時に亡くなられました。父も泣いていました。多くのご遺族にとって、今日は鎮魂と祈りの日です。

 ボクは父が日本航空をこよなく愛したため、その想いを受け継いで、いつも日本航空を利用するようにしています。今日も2Aの席に乗っていました。

 いつものことながら、出発準備が整って駐機場から飛行機が動き始めるときに、整備のみなさんがこちらに手を振ってくれます。見送ってくれることへの感謝を込めて、ボクも必ず窓から一礼することにしています(周囲に知られないように、そっとですが。ブログに書いたら…)。

 過日、後輩と機上にいた時にちょこっと頭を下げるボクに気づいたその人が、「松本先生、ご丁寧なのにもほどがありますわ」と笑っていましたが、ボクは父の頃から数えると50年近く、この会社に支えられてきた思いとも重なって‥‥。

 初めてアメリカに行った時にも、はじめて大学教員として講義させてもらったシンガポールの旅のときにも日本航空でした。

 あの悲しい事故の時の職員のみなさんの血のにじむような対応も、その後の会社更生法のことも、いつも見てきました。そのことを知っているだけに、今朝、ボクが乗った飛行機を見送る整備の人の姿を見ると、(勝手に思っているのですが)仲間として‥その姿に感謝せずにはいられないのです。

 夕刻、少し空港が込み合っていましたが、妻の夕食には何とかすべり込んで、いつものように妻が「遅かったな~」という言葉を肩にうけ流しながら、無事に帰れたことに感謝しています。

 同時にあの事故から33年もたったのだと思いながら、その記憶を風化させることなく、次代への安全を願います。

 今日の飛行機も尾翼には「鶴丸」、こうして一度は消えかかったシンボルが戻ってきてくれて、父が生きていたらさぞ喜んだことでしょう。父もボクも鶴丸に乗って行き来することを、自分の人生に重ねて大切にしてきたのですから、ね。


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