ものわすれブログ

出合ったひと(7)モーリス・カーシュ爺

05/31/2018

 タイトルが出合う人々から出会ったひとに代わりました。今、ここを生きる人びとを書いてきましたが、実はボクの人生に決定的な影響を与えた人の筆頭にいるのが、アメリカ人のモーリス・カーシュさんです。

 カリフォルニア、パロ・アルトの郊外にある大邸宅で「アメリカに来る前にはどこにいたの?」、「カーシュってアングロサクソンの名前じゃないよね」って聞いた17歳のボクに彼は静かに答えてくれました。「私はアシュケナージ(ヨーロッパにいるユダヤ人)だったんだよ。知人には有名な画家のベン・シャーンがいる」、「彼はリトアニア、私もロシア革命が起きた時にロシアからアメリカに来たんだ」、と。

 

 親父が大阪でレストランを決められずに迷っているカーシュさんに声をかけ(父は英語が全く話せなかったのですが)、彼を大阪のめし屋さんに連れて行ったのが、1970年の万博の時です。そこから物語が始まりました。

 大阪人(本当はうちのオヤジは愛媛出身の大阪人でしたが)の面倒見の良さに感激したカーシュさんは、うちに来て何度も「私が大阪で迷ったときの救世主こそ、あなたのお父さんだ」と言ってくれました。そしてあろうことかボクをアメリカに留学させたいと申し出てくれました。

 

 彼がアメリカで出合った奥さん(これがまたフランス系のシャーロットさん)がスタンフォード大学の先生で、「ぜひ、息子さんをお預かりしたい。必ずカリフォルニアで医者にする!」と申し出てくれました。もし、あの時に申し出をお受けしていたら、ボクの人生は全く変わっていたはず。でも、何年もの留学は(父が反対して)かないませんでした。

 

 しかしボクに大きな影響を与えてくれたのは、それから2年後に始まり何度もくり返した「夏休みカリフォルニア滞在」でした。1972年、大統領選挙を前にしてスタンフォード大学やカリフォルニア大学バークレー校では、学生運動が起きていました。「ストップ、ニクソン」と落書きされたキャンパスで、ボクは学生が国を変えようとする勢いの「息吹き」を感じることができました。

 そして、何よりも忘れられない思い出こそ、カーシュさんの家の地下にあった彼のスタジオ(アトリエ)と、彼のコラージュ作品でした。大阪の下町に生まれ育ったボクは、それなりに芸術的なことを身の回りに感じて育ちました。母は今のボクと同じように、アマチュアの油絵画家で、診療の余暇に油絵を描いていましたから。

 

 しかし、カーシュさんのアトリエで目にしたのは、芸術を人生の伴侶とし、たとえロシア革命で国を追われてアメリカに渡らなければならない人生であっても、そこで折れることなく絵画やコラージュへの情熱を忘れることがなかったカーシュさんの思い、でした。

 ボクの部屋には、その渡米時に彼がくれた自宅前の風景画があります。45年ほど前の経験ですが、その絵をもらった時の彼のことばの強烈なイメージは今でも鮮やかによみがえります。

 

 「いっしょう、お前はこれからどんな人生を送るかわからない。私のように、考えてもいなかった人生を送るかもしれない。だけどどんな時にも忘れないことが2つある。ひとつは地獄の日々の中でも失わなかった芸術への気持ち、そしてもうひとつは、(ベン・シャーンと誓いあったことでもあるけれど)どんな時にあっても、自分以外の誰かのために人生をささげようと思ったことだ。自分のためではなく見知らぬ誰かのために人生や自分の芸術ををささげられるなら、こんなに小さな私の人生でも、それを見ている神が、許してくれるような気がするんだ。」

 

カーシュさん、今のボクはあなたが言ってくれたようなボクになっていますか。 彼の思い出こそ今のボクを支えてくれる基軸です。

 

(前回ブログは短くすると書いたのに、また1500字になってしまったっち。)

 

 

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