出合う人々(6)違いを超えて
気が付くと2018年も半ば。え?、そんなに早く人生の時は過ぎるの?と、思ったボクは介護5年目の夏を迎えようとしています。確か2013年には海外で特別講演に呼ばれたよな、それから5年で妻の夕食の介護をする自分になっているなんて、思いもしないこと。でも、人生は「与えられた所で生きる意味」を見つけなければなりませんから、ね。
5月15日、ボクらは京都で葵祭(あおいまつり)が開催される日を結婚記念日として、35年の時を過ごしました。
その前日にイスラエルのアメリカ大使館がテルアビブからエルサレムに移りました。イスラム教、ユダヤ教、そしてキリスト教の聖地であるエルサレムは、誰のものでもなく決して自分が横取りしないことを、何十年にもわたって保ってきたのに。政治や宗教の話はしないけど…、とても残念。
高校生の時にアメリカに呼んでくれた画家のモーリス・カーシュさんのおかげでボクはあります。彼は同じように迫害を受けた画家のベン・シャーンの友人で、共にユダヤ人です。その彼らへの共感があると同時に、中東戦争でパレスチナを追われた人々の苦しみに共感を持って来ました。人は違いを超えて共存できる、と。
背景が違っていたとしたら、意見は異なるはず。その時に「自分が正しい」と主張するか、それとも「あなたと私の背景は異なる、だから私は(わからなくても)あなたの立場を尊重する」と言えるか、そこには大きな勇気と決断が求められています。
これって地域包括ケアの考え方とも似ていますね。それぞれの立場を超えて、お互いの視線から考えられるサポートをみんなで考えていく、ってね。。
違うものと出合えば人の心はけば立つもの。それはボクの精神科医としての人生を振り返っても、恥ずかしい過去でもあります。多様性を理解しようと思っても、どこかで違和感を感じている自分がいることや、「平等だ!」と叫んでいる自分が、実は周囲の人の視線を気にした結果「平等派」を演じている場合など、とても恥ずかしいボクがいます。
でもね、多様性を認めて自分の価値観とは異なる世界をも「良しとする」ためには、みんながそれでも(少し無理をしながら)、「いいよ」って言って見せることが大切だと思っています。
ある人がボクのブログを読んでくれていて、「先生は結構頻繁にブログを載せるけど、写真はないし、文章が長くて、新しいブログを読むのが「しんどい!」と言っていました。
てへ、これは申し訳ない。読み手の事を考えていませんでした。1000字程度にしますか。
え、それでも長い?