ものわすれブログ

日々を生きる(8)「こんなはずではなかった」自分を生きてみる

08/16/2017

 誰もみなそうだと思いますが、自分が「こうなりたい」とか「こうやって自己実現を目指したい」と考えていた時代があったはずです。その希望通りに夢がかなって満足できている人は、そう多くはないでしょう。

 おそらく多くの人は「こんなはずではなかった」と人生計画のとん挫を嘆き、自分が置かれた新たな世界を、「こんなところにいる自分ではない」と否定しながら、そこから出られない精神的な状況になっているかもしれません。

 ボクもその一人なのかな~。妻の介護者としての自分を受け入れられずに来た3年間、今年のお盆も買い出しの毎日ですが、少しずつ自分を受け入れるように努めています。

 

 ボクが認知症だけを診るようになる前には、カウンセリングを中心とした精神科医をしていて、会社の出世コースから外れて思い悩む人、突然、自身が属してきた会社の派閥が負けて、理不尽ながら左遷されてしまった人が、相談に来ておられました。「おれ、力がなかったのではなく、運が悪かったんです」と言い続ける人の苦悩がにじみ出ていました。

 

 認知症の人も、そしてその人を介護することになった家族にもそういう思いを持った人がいます。少なくともボクが2014年に妻の介護が始まったとき、ずいぶん自分を見失ってそんな風に思いました。「こんな大事な時期に研究もやめて妻の介護だけの日々なんてこれは何かの間違いに違いない」と思い続けて、その事実から逃げようとしたことも、はっきりと覚えています。

 何という手前勝手な相手に愛情のない考えを持ったのでしょうか。でもね、やはりボクは逃げたかったんです。せっかく積み上げて、これから本格的にできると思った研究も奪い去られたと自暴自棄になっていました。

 でも、最も「こんなはずではない」と思っているのは妻ですから、ね。ボクも自分が置かれた場所で今一度自分の役割を考えて、今の役割を生きはじめられたのなら…今後の希望につながりますね。

 

 円空という僧が諸国を旅しながら、その地にある木片を削って御仏の姿を刻み続けた姿に、ずっと魅せられてきました。それはイタリアのアッシジにある富豪の家に生まれながら、十字軍に疑問を持ち戦いの人生から抜け出して求道者になった聖フランチェスコとイメージが重なります。物事の本質を見なければ「何の意味があるのか」と問いかけたくなることに意味を見出すことができれば、その人は自分の人生に意味があることを実感します。誰かが評価してくれるかどうかではなく、自分の中で報われることがないと思い込んでいた日々のくり返しも、見かたを変えれば自らのプロセスであると、改めて考えるようになりました。

 

 毎年8月16日は京都の「五山の送り火」の日です。京都に住み始めた34年前から毎年のように自宅から見続けてきました。妻の介護を始めてからは一度も見ていません。大阪の診療所の上階にいますからね。その分、今晩はKBS京都の送り火の生中継を見ようかな~。

 

 

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