ものわすれブログ

日々を生きる(1)ある思い

06/20/2017

 人生を送って60年が過ぎたなんて信じられません。今でも15歳の時のボクの気持ちは生き生きと思い出すことができます。「かつての青春の良き時代の思い出」なんてありません。いつも…いつでも今のボクが青春を生きています。傲慢でしょうか、自分だけ老い込まないと思いたい還暦の人間の強がりでしょうか。いいえ、ボクは自分の気持ちにおいて、何かに対する思いが尽きることがなければ、その人はまだ青春を生きていると確信しているからです。担当する認知症の人々を見ていても、その人の「こころのありよう」が、その後の経過を大きく左右することがわかり、人間はそれほどまでに精神的な存在なのだと気づかされます。

 

  ある思い、たとえばそれは誰か人への気持ちでしょうか、何か大切な使命やこころざしへの熱情でしょうか、さまざまなものがあります。誰かに対する気持ち、あきらめきれない情熱への想い、誰かのために人生を送ろうと覚悟した想い、どんな思いでも尽きることがない想いが続く限り、その人はまだこの先に人格の成長の可能性を考えることができます。「生涯発達の心理学」の助けを借りなくても、私たちの気持ちはまだまだ上向きになることができます。

 

 妻の介護でこの先の人生をすべて奪い去られたような気持になっていた3年前と、今の気持ちにそう大きな変わりはないかもしれません。でも、絶望に生きていた3年前のボクは被害者意識の塊でした。それを何とか克服しようと、毎日の診療、往診、その後に妻の惣菜を買いに行く日々を続けてきました。

 

 数日前、かつての知人と会う機会を得ました。その人と同時代を生きることが輝いていた同志です。今では異なる道を選びましたが「なぜ、同じ主義を貫き通すことができなかったのか」と悔やむのではなく、希望通りにはいかなかったけれど、今のこの道を受け入れて役割を果たしながら、それでも未来に向かう自分の可能性を捨てないことが大切だと改めて思いました。

 

 たとえば認知症になった人が自分に降りかかったとてつもない不幸を嘆くことのみに生き、周囲への恨みと自分の怒りの中に生き続けることもできます。しかし一方では、そのような自分に傷つきながらも、自分の可能性がある限り「それでも何ができるか」を模索するなら、それが何年かの時を経て大きな違いになるでしょう。そこに自分を当てはめています。

 理想をかかげ、この国の未来の医療を良いものにしようと願いながらその人と生きた時代の幸せを思い出したときに、ボクは今の自分が置かれているさまざまな「不幸」に生きるのではなく、置かれた状況を嘆くだけではなく、それでもあきらめない自分を生きてみようと思います。医療は変わり制度は様変わりをしても、今はまだ人生を語らず、自分に限界をかけず、受け入れた後に何が自分の可能性として残るのかを見つめていきます。

 

 長く困難な介護のくり返しの中、屋根の下で日々を耐えている認知症の人と介護者の貴重な時間の一瞬に、たとえかすかでも解決につながる美しい輝きを見出すことができれば、介護者は明日からまた自分を奮い立たせ、地域の連携支援の中で次世代の子どもたちに希望を残すこともできます。そのような地域を目指して日々のケアを続ける人とともに、ボクの臨床はあります。

(最後のパラグラフは拙著「家族と学認知症」のあとがきを一部改変して掲載)

 

 

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