診療にて(9)番外編:4年目が来るぞ
毎年この季節になると思い出すことがあります。妻の母親をボクの京都の自宅に呼び寄せて在宅介護した20年+入所してからの7年間、ひとりっ子同士で結婚した妻とボクはほとんど親戚がなく、妻は一人で母親を介護しました。妻の母親は4月に体調を崩すことが年中行事のようになっていました…。そして妻ですが、忘れもしない2014年のゴールデンウィークあたりから調子を崩し、夏に向かってこだわりが増えました。
「食欲が出ない。味がわからない」と訴えるため、自宅での食事をあきらめ、二人で外食をした時もつらい思い出です。梅雨から夏にかけてこだわりや強迫性が強くなり、介護保険のサービスのうちで人と接する面でのケアを受け入れてくれるのは、ホームヘルパーさんとの朝の散歩だけです。外出は15分ほど歩くと、その後は「歩けなく」なってしまいますが、家の中では過ごせます。
若いこともあってデイサービスやショートステイを活用する気が本人にはありません。かたくなに拒否します。ボクからするとせめて1泊でもできると全国からの講演依頼をお断りしなくても良いのですが、夕食時に妻が不安になるため帰りが遅くなることを受け入れません。ボクは北海道に行こうが、沖縄の日本認知症ケア学会のシンポジウムに招かれようとも、必ず(夕食ごろまでに)日帰りしなければならなくなっています。それでも診療所の事務的なことには意見も出せるため職員として在籍していることが唯一の慰めかもしれません。
2014年の9月、ボクは北海道の砂川で「行方知れず(徘徊)模擬訓練の講師として招かれていました。その時、ボクを呼んでくれたみなさんの前で「明日から診療所(上階の元実家)で妻の在宅ケアを始めます。ボクはこの先、介護者として破綻せずにやっていけるでしょうか」と会場の人々に自分のこころの中の不安を聞いてもらいました。
それから3年、先日、朝日新聞の映画紹介(生活面)の取材を受けました。妻を介護した12年にわたる元教師の夫の物語、「八重子のハミング」という映画のコメントに「介護者は自分の人生が70%、介護は30%でやること」と述べました。本当にそう思っています。これまで診療所を受診された認知症の人を介護する家族には、常にそのように伝えてきました。
自分にも問いかけます。「そういうお前は人さまに言っているように、自分の力を30%にして介護していられるのか」、と。
ボクはまだ50%・50%でしょうか。ケア学会の仕事を減らし、講演会を日帰り可能なところだけに限定し、診療時間を削って夕食の惣菜を買い出しに行く日々は、決してボクにとって30%ではないからです。自分で言い、書いているくせに、実行できていません。
頭ではわかっていても、実際にはできない状況があることもこの3年でわかりました。子どもたちや周囲の仲間が言ってくれることは、こころからわかってはいるけれど、どうしても「今は」ふみ切れないときがあります。それでもね、それでも介護家族4年目には自分が70%の生活を取り戻せるように努力していきたいと思います。努力しないよう努力するってことでしょうね。
ボクは何とか在宅ケアを続けています。砂川のみなさん、3年前のボクの話を聞いて涙してくれた仲間の皆さん、何とか日々を送っています。依然として低いレベルですが安定しています。ボクはこうして、喘ぎながらも今日を生きる妻と生きてま~す。