診療にて(8)今を生きる人と出会う
日々の診療の中でボクは常に「今を生きるひと」と出合います。認知症という病気が完治することがなく、しかも長年にわたってその病気と付き合いながら人生を送ることが大切であるからこそ、ボクの目の前に座る人々は、「今、ここ」での命の輝きを大切にして、明日に希望をつなぎたいと願っています。
自分の人生を振り返った時に、挫折の多い人生を支えてくれたのは、「今はつらくても希望を失わない」人々でした。自分にはたいした才もなく、それでも支援者になることで生きる価値があると思い続けてきたボクは、認知症と向き合う人と同時代を生きます。彼らは誰かに相談したくても相談する場さえないような状況にあっても、自分をあきらめることはありませんでした。ボクはそういう人々を「支援する」という形を取りながら、実は「それでもあきらめない人々」から力をもらい、支えてもらう毎日です。
かねてより精神医療の世界では「今、ここ(here and now)」を大切に考えます。完全に治癒できる精神疾患も昨今では増えましたが、かつて治療が困難で、しかも今のように著効する薬がなかったころには、「何とかその一日を生きることができた」といった日々の積み重ねが大切でし。今でも、もちろんその日その日を大切にしながら、少しでも悪くならないようにすることが、慢性の病気やメンタル領域には大切な考え方ですが、一昔前には「その日」を何とか過ごすのが精いっぱいの人がたくさんいました。ボクは精神科医その願いや努力を見てきました。
認知症の人が混乱なく安定した病気の経過になると、結果的には悪化が遅くなります。時代が変わり認知症への社会の理解は25年前にボクが精神科医になったころに比べると大きく変わりました。誰か特別な人に起きる特別なこと、それは言い換えればその人の「業(ごう)」であるかのように忌避された時代ではありません。
しかし完治することがない病気であるために、まだまだ楽観的な見方はできるはずがありません。それでも慢性の経過をもつさまざまな病気と同じように、よりよい状態を日々続けていけば、認知症は悪化を穏やかにして、その人が生きる時間の質を高めることができます。
先日も初診から23年目になる「ピック型認知症」の妻を介護する夫が来てくれました。「妻はもう歩けなくて特養に寝たきりですが、それでもこれまで私は妻を支えて、先生と一緒にやってこられて良かった」と彼は言いました。彼の人生もまた、介護を通して意味あるものになったのでしょう。
「今日、この1日を精いっぱい生きて行こう」とする人々がボクの診療所を訪れます。彼らがボクに求める第1のこと、それは「治療してほしい」との切なる願いです。それがかなわなくても、「この日を生きる自分と向き合ってほしい」との願いをもって認知症の人は会いに来てくれます。ボクの役目はただ一つ、その姿をしっかりと見つめ、記憶し、その姿に勇気づけられることです。支えているように見えて、実は支えられ続けている医者として、彼らの願いに少しでもよりそうことができるように努めたいと思います。