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ものわすれブログ

自分の役割(8)21世紀老年


 1964年の東京オリンピックの時は小学生でした。大阪の万博の時には中学2年生、自分が介護者として次のオリンピックの時には老年に近づくとは考えもしませんでした。

 開業医になった年、行政からの依頼を受けて保健所(今は保健福祉センター)の嘱託医になり、たくさんの人を地域担当の保健師さんと巡りました。経験も浅い精神科医でしたが、就任した直後、脳外科の手術を終えて退院はしたものの、その後の後遺症(脳出血の後遺症 手術のそれではありません)のために大声が止められずに在宅で療養を受けているAさん(55歳女性)をたった一人で介護する夫のBさん(56歳)と出会いました。

 Bさんとはとても気が合って彼の趣味だった鉄道模型の話や、ボクが小さい時に大阪万博でサンフランシスコ館に出会い、感激したことなどを話すようになりました。近くで診療所をしているボクに受診する妻の夫としてではなく、地域の保健所から訪問する嘱託医のほうがBさんにとって話しやすかったのかもしれません。その後、Aさんの行動面の障がいは診療所の医師として軽減しながら、介護家族としてのBさんを支えた経験こそが、ボクの診療の基本をなす「家族支援」の原点になりました。

 やがてAさんの症状が落ち着き、Bさんも数年の介護を経て特別養護老人ホームに入所することが決まりました。介護保険ができる数年前のことです、夫婦にかかわったすべての人が安堵したことを覚えています。ところが入所して3か月、Bさんに手おくれの肺がんがあることがわかり、あっという間にBさんは亡くなりました。Aさんはその後15年ほどして亡くなるまで、その人ホーム(本当に優良なホームでした)で人生を送りました。

 ボクのこころには今、介護家族として支援していたBさんの言葉がいつも心によみがえってきます。「松本先生、私は鉄道模型が好きで、いつも妻には金銭的に苦労をかけました。鉄道模型は高いですからね。今、妻を介護しているのはその償いのためですかね」

「でもね、妻はいつも私が作るジオラマを楽しみにしてくれました」

「だから……、自分ではそれなりに覚悟して介護者になったんです。中学校の校長をやめて介護家族になる人生を選んですから」

 当時、ボクはBさんの言葉を当たり前のように聞き流していました。「そうなんですか」とだけ反応したような記憶があります。あの言葉に込められたBさんの覚悟と辛さを分けどることができるには、25年の時を要しました。

 今ならわかります。あなたが人生をかけてきた教師人生を投げうって、奥さんの介護者になることを決意するのは、並大抵のことではなかっただろうと。そしていつまで続くかわからない介護の日々で、これまでやったことがない奥さんのおむつ交換や食事の介護をする自分を、あなたはどのようにして受け入れることができたのでしょうか。

いつまでも若く活躍したい気持ちと、辛い現実ではあっても、そこに意味を見出して受け入れたあなたの覚悟を、あなたがいる間に語り合うことができていれば、ボクはもっと今の自分の立場に納得できたかもしれません。


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