妻、とつぜんの入院・入居!
前回のブログでみなさんに「この9月で妻の在宅介護10年を迎えます」と書いていたのですが、去る7月17日、コロナ感染をしたのちに誤嚥性肺炎をくり返し、長年の「強迫性」のための向精神薬を飲み続けてきた妻が悪性症候群も併発して救急搬送され、京都市内の病院に入院しました。
それなりに元気だった妻が、まるで青天霹靂のように呼吸管理されるようになりました。呼吸器科の先生も努力してくれて、3度の意識混濁・危篤状態を乗り越えましたが、9月3日には診療所近くの(普段から親しい)病院に転院、2か月弱の地域包括ケア病棟入院を経て、これも診療所近くの(リーズナブルな)介護付き有料ホームに入居しました。10月25日のことです。
これまでの10年、最初の2年は大阪の診療所の上階で、その後、京都の自宅に戻って在宅ケアを続け、妻の夕食を作り、惣菜(ひとり分)を買い続ける日を送りました。それ以前に妻の母親を27年(そのうち20年は在宅)介護していましたので、11年目を迎える今はまだ在宅ケアの「道半ば」だと思っていました。入院・入居はしましたが、これまでどのような(他者の)ケアも拒み続けてきた妻ですから、少し体調が改善すれば「こんなところには居ない!京都の自宅に戻る!!」といつ言われるか戦々恐々として見守った3か月でしたが、昨日も面会に行った際、妻が「ここにいる」と言ったのを聞いて、少し気が抜けました。
3度の意識混濁、肺炎の代償は大きく、この3か月弱の入院で、普通の車イス生活もできなくなりました。ずっと臥床、移動はリクライニング車いすです。転院の際には京都から大阪までストレッチャーで移動するしかなかったことを考えると改善しましたが、それでも体重はまだ30㎏程度です。65歳なのにほぼ寝たきりなので、今後は本人のつらさに寄り添いたいと思います。
ボクにも問題が起きました。妻が入院してから1か月半、酷暑の中で日々の診察と病院の行き来も含めてあわただしい日々を送っていました。少しずつ落ち着いてホームへの転院・入居が決まったころから、これまでに経験したことがないほど、体調を崩してしまいました。いつものふらつきは言うに及ばず、風邪をひきやすくなり、一度引いた鼻かぜが長引いて何日か診療所を休診し、心配した事務長(息子です)から叱られて凹んでしまいました。
これまでにも診療所を父から託され、たくさんの職員をまとめるメドがつきほっとした時、末期のがんを抱えながら診療を続けた母を無事に見送って安堵したときに体調を崩していました。いつも「介護家族が急激にストレスから解放されたとき、少しの時間差を持って体調を崩す時期がくる」という、これまでの臨床研究を自分の体で実証したことになりますww。
こうしてこのブログを呼んでくださっている皆さんの中には在ケアを続ける宅家族介護者がいます。ボクの体験を在宅ケアの一助にしてもらいたくてケアのブログを書き続けてきました。今回のことでボクのケア体験は「在宅から入居」と大きな転機を迎えましたが、これからは入居後のケアが待っています。ここからが勝負、ケアは在宅だけではなく、入居してからもなお、いかに地域で生きているかを本人や家族が実感できてこそ、地域包括ケアですからね。
さあ、次のステップは何か、と考える今、ボクの年齢がこれまで役員などを続けてきた学会や社会的活動を終える年齢になってきました。そこから身を引いたとしても言い続けたいと思っていることがあります。それは多くの専門職や介護職の人々が、ボクと同じように介護家族としても生きていくことになった際、支援職としての自分を自覚する一方で、介護者である立場を安心して過ごせ、「2つの人生」を送ることができる社会を作ることです。人手不足、社会資源がなくても、そこで働く私たちが胸を張って「私も介護者である」と言える社会を目指すことだと思います。これからが本当の意味での戦いです。在宅ケアを終えて入居した時に、本人も家族も「これで終わった」と思うようなことではいけません。本人にとっては入居した後の人生にも意味が見つかり、われわれのような支援職が本人、家族の代弁者になれるように努力します。
その役割を感じつつ、ボクが妻の夕食のための(一人分だけの)惣菜の買い出しはこれで終わりにしましょう。
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