ものわすれブログ

人生のどんでん返し

 ロシアのウクライナ侵略から20日を迎える今日も、テレビやネットからウクライナ各地の廃墟となった町、村の画像が送られてきます。幸せだった日々が突然に変わってしまい、ウクライナの人々は驚きと絶望の中で日々を送っているのだと考えるとこころが痛みます。

 一方のロシアの一般の人々の多くもまた、自国の突然の兄弟国への侵略を信じられない気持ちで見ている人も多いことでしょう(報道規制で知らない人も多いらしいですね)。政府が他国に対して喧嘩を仕掛けても、その国民は平穏な日々と平和を望んでいるはず。人生は思いもかけないところで大きく変わるのだと実感しました。平和を願う気持ちでウクライナの青と黄色のバッジをつけていますが、ボクのこころの中ではロシアの市民への平和も希求する祈りを込めています。


 今年は東日本大震災11年、あの年、母をがんで見送った年でもありました。われわれ関西では阪神淡路大震災の経験も忘れることができない記憶です。突然の災害がこれまでの日々を180度変えてしまうことがあると知っているつもりでしたが、いざ、そのような事態になって初めて人間の存在は自然や地球の時間の流れの中では、小さなものなのだと感じることになりました。


 昨年の12月にこれまでの診療所から400mほど南下した大阪市旭区新森の地に、診療所を新築移転しました。これまでに何度かブログにも書いたように、これまでの診療所は70年前(昭和26年)に両親が診療所を開設した思い出の地であり、ボクの実家です。40年ほど前に鉄筋コンクリートの一部5階建ての診療所を作り、それを修理しながら使ってきて、ボクには隅々までいろいろな思い出が詰まっている診療所でもありました。


 それを思い切って移転し、新しいところに土地を購入し、建物も新築して移転したのには訳があります。今年で8年目を迎える妻の介護のためです。これまでの鉄筋5階建ての診療所は段差が極めて多く、妻が8年前に強迫性が悪化して入院した後、約3年間はボクの実家(その5階建ての3~5階が実家)でケアしたのですが、入浴ひとつとっても段差がある40年前の建物ではうまくいかず、いろいろと悩んだ末に新しい地を選ぶことになりました。

 新診療所は一見すると普通の家です。その2階に完全にフラットにした(小さな)自宅を作り、風呂もほぼ段差がないようにしました。

 「さあ、これで介護がしやすいユニバーサルデザインの自宅ができた。京都には40年近く住んで第2のふるさとだけど、これからは大阪でケアをしよう。そうすれば夕飯の惣菜の買い出し時間も短縮できるし、夜の急患さんへの対応や地域包括センターとの連携もできる」と確信して建築した新しい診療所です。出来上がる前、11月には妻に竣工のことを伝え、そろそろ引っ越しを、と考えていました。

 「今の京都のマンションは娘が続けて住めば良い」と考え、引っ越しのことを話し始めた昨年の12月半ば、ボクは妻の信じられない発言を耳にすることになりました。


 「え?大阪の診療所に引っ越す?私、そんな話知らへんョ。」とある日の夕食時に妻はボクに言いました。いえいえ、建築前からそのことは伝えていたでしょ。だいたい、新しい建物の2階でケアをするためでなければ、いったい何のためにボクはわざわざ(これまでの思い出の詰まった)実家の診療所を手放して、新しく小さな診療所を建て替えて移転する必要性があったのでしょうか?

 

 一瞬、わが耳を疑うような妻の発言でしたが、妻は側頭葉の内側に変化があるため、突然に話の脈絡が変わり、一度言い出すと考えを修正することができません。


 あ、そうなの… とかわしましたが、ボクの心中はおさまりません。「引っ越すと言ったから、実家から出たのに」という思いと共に「そうとわかっていたら、わざわざ新しい診療所を作らなかったのに‥‥‥」との思いが頭の中をぐるぐると駆け巡ります。

 あ、そうなのか。人生はそんなふうに展開することもあるのか‥‥。建物ができれば引っ越しだと思って1年間、何の疑いもなく移転準備を勧めましたが、いざ、引っ越すときになって反故になってしまうとは。いくら妻の病気があると言っても、人生にはそういうどんでん返しもあるのか…‥。

 

 移転して4か月。しかし物は考えよう、フラットな自宅は作りましたので、この先、妻の考えや状態像が突然変わる可能性もあります。「あきらめずにチャンスを待つか。」人生は思うようにいかないことの連続です。それでも可能性を信じて無理なく次の展開を待つことにします‥‥。

 そんなことを考えながら、ボクは今も朝5時34分に京都の出町柳を出発する快速急行に乗って大阪の診療所に通勤する日々を送っています。この先、いつまで通勤は続くのでしょうね。


院長ブログ
Blogs
アーカイブ