• 松本一生

生きる場所(7)認知症という希望


 あと2か月で平成は終わりですね。いよいよ5月末には日本認知症ケア学会の第20回大会が京都、宝ヶ池の国立国際会館で開かれます。学会理事長の繁田先生が京都大会の大会長でタイトルは「認知症という希望」。

 ボクも一般演題を発表します。本当に久しぶりです。妻の具合が悪くなる前にも数年、母のがんとの闘病があったため自分から学会発表の演題を投稿することなく、学会から依頼されたシンポジウムや基調講演の依頼だけに応じてきました。「学会へのわくわく感」が薄れてしまい、学会や大会を運営する方になっていたことに気づきました。「いけない、いけない。管理者側になるには早すぎる」とボクの中の誰かが訴えてきます。もう62歳になっているから、管理者はおろか定年などと言われるかもしれませんが、いえいえ、まだ現役です、気持ちだけは。

 認知症という病気は今でも手ごわくて、完全に良くすることが難しいのは誰もが知っていること。でもね、今度の大会に「認知症という希望」と題がついているのは、認知症になったら何も希望なく、ただ、人生の終焉を迎えるだけではないことを、みんなで共有したいからなんですよね。特にボクはこのテーマから、命のバトンリレーを行うわれわれが、人は誰も『死』から逃れることができない存在であるとともに、認知症ケアを通して次の世代に「人生について」伝えるチャンスがあると考えているんです。かつて中世のヨーロッパにペストがはやり、多くの人が亡くなる事態を迎えた時に、人々はラテン語でmemento mori (人は皆、死ぬものだということを忘れるな)という言葉を残して、「人生はいつ何時、ペストであっという間に終わってしまうかわからない。だから精いっぱい生きよ」と考えていました。

 本当は21世紀の今だって同じことですよね。多くの国では紛争や戦争が絶えず、今日は友達であった人々が、明日は丘を越えて責めて来るかもしれない地域もたくさんあります。

 そんな時、認知症のケアは完治できない慢性の進行性の病気である認知症でも、ケアを続けることでその人の良い状態を保ち、その人と共に生きる家族に希望を与え、そしてその人と共にある地域の絆を作ることができます。そのような病気と30年弱付き合うと、認知症の人自身の安定とともに、その人へのケアを見続けた次の世代の人たちが、人生とはどういうものかどう生きるべきかをしっかりと学んでくれていることに気づかされます。次大会はボクにとって「認知症という希望」も、「認知症ケアが人類の希望の光であること」をも示してくれる大会なのかもしれませんね。

 5月25日、26日、京都、宝ヶ池の国立国際会館で開催されます。ボクは26日(日)朝10時から12時のシンポジウムで、専門職が認知症の人や家族から支えられることについて発言します。また、一般演題として7800人の認知症当事者をケアした家族についての集大成の発表をします。先日、演題が受理されたという知らせが来ましたので、久しぶりの一般演題発表です。

 薫風かおる5月の京都、みなさん、どうぞおこしやす~。(もっともボクは演題発表が済んだらすぐに家内の夕食の惣菜を買いに行かないといけませんが‥‥)


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