• 松本一生

生きる場所(5)前頭葉側頭葉変性症


 ものわすれの病気、認知症にはたくさんの種類がありますが、「生きる場所」について最も周囲の者が注意しなければならないのが、前頭葉と側頭葉が変化する前頭葉側頭葉変性症です。その中にはことばが出にくくなるものや、激しい症状が出るタイプもありますが、ボクがこれまでに担当した患者さんの中で、最も多かったのが「わが道を行く」というタイプの人たちでした。何か飄々(ひょうひょう)として社会的なルールがわかりにくくなる人もいます。

 診断の上では「非社会性」と表します。反社会性とは異なり、社会に対する不満を持つものではありません。ときどき専門家でも間違えていますが、このふたつは大違い。非社会性のために社会のルールや状況がわかりにくくなって、結果的には「困った」事態も起きますが、決してその人には悪意などありません。

 もう20年ほど前のことですが、ボクはある大学から依頼されて、まだ40代半ばになったばかりの前頭葉側頭葉変性症の男性を担当することになりました。当時は若年性認知症が社会的にも経済的にも支援されなければならないという、今では当たり前のことも社会に受け入れられていなくて、介護している妻も大変な苦労をしていたと思います。

 月に1度、調子が悪ければ毎週でも通院してもらいましたが、何よりも奥さんが困ったのが経済面でした。何事にも無頓着になる夫の介護をするだけでなく、彼が経営していた会社を継ぐことはできず他人の手にわたり、その後、家族を支えるためにスーパーマーケットのレジのパートに出ることになりました。毎月の受診で疲れた表情を見せながらも、息子二人に何とか大学受験をさせたいと願った彼女は、パートのつらさを息子たちに愚痴ることなどありませんでした。「もし、弱音を吐けば息子たちは私と夫を支えるために受験を諦めるでしょう。私はそんな親にはなりません」と彼女は言い、ボクはこころの中では「無理するなョ」と思いながらも、その人の思いを否定せずに見守りたいと思い続けていました。

 そんなある日、自分が勤めるスーパーに何と彼女は療養中の夫と同行してくれるボランティアの男性を招きました。「夫に自分が頑張っている姿を見てもらいたい」との思いでした。ところがボランティアの男性がちょっと目を離した間に、夫はスーパーの中を歩きまわり、出口で捕まったときに警備員室で彼のポケットから出てきたのは8本の練り歯磨きでした。

 いくら妻が説明しても、それを聞いて駆け付けたボクの説明を聞いてもスーパーの社員さんは彼の病気を理解してくれませんでした。

 警官が来た時の奥さんの泣き顔をボクは一生忘れません。

 それから20年、今ではそのスーパーで「認知症の理解を深めるミニ講演」が開かれます。

 「前頭葉側頭葉のひとの『無頓着さ』に注意しましょう。彼らには物を盗るという悪気はありません。つい、目についたものを手に取って何気なくポケットに入れてしまうのが病気の特徴です。」講師の言葉が聞こえてきました。

 そう、あの時、夫を支えられなかったことを自分のせいにしてうつ病になってしまった奥さんの哀しみと悔しさは、今こうして理解されるようになってきたのかな。そう思うとあの時の自分の至らなさとともに、これからも彼らのかわりに社会に向かって意見を言う代弁者になり続けることが、ボクの生きる場所だと思うんですョ。


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