• 松本一生

仲間として(6)炎天下の地下鉄、駅を迷う


 8月のお盆休みが終わりに近づいたころ、ボクは妻の食事の買い出しもあり、妻が(旅行はもちろん)どこにも行けないために長い休みを取ることなく、毎日、往診して炎天下にいました。娘が買い出しのほとんどをしてくれて、こころから感謝!です。

 ちょっと買い物に行っても、お盆の期間はみなさん家族で買い出しに来ている人も多いようで、その日に行ったショッピングモールも家族連れでいっぱい、「楽しそうだな~」と思いながら買い出しを済ませました。

 買い物が済んで地下鉄に乗り、ふと前を見ると知り合いの地域包括支援センターの職員さんが座っていました。お盆でもカレンダー通りに勤務があるのでしょう。ひとつ前の駅で声をかけて買い出しに行っていたことを話していると、その職員さんも朝から介護関係の研修に行っておられたとのこと、お互いに長い休みはとれない仕事に就いていることを実感しました。

 話がはずんで地下鉄を降り、エスカレータを上って地上にでたとたん、「あれ、この風景は?」と、頭が混乱していることに気づきました。「この風景はいつも見る地下鉄の駅だ」、「でも、どこか違う」、地下鉄の駅はひとつの線で同じような造りになっていますよね。ボクと

彼はその「あたりまえ」の風景の一部が違っていた事で、頭の中が一瞬、真っ白になりました。出口を出たところで、ここが目的の駅ではなくひとつ前の駅であり、われわれ二人は話に夢中になっていて間違えたのです。

 これは、と思いました。

 認知症が進んでくると見当識障がいが出てくるものです。時間と場所を「見当つける」ことが見当識なのですが、そこがあやふやになってくる人がいます。

 寝起きに時間がわからなくなったことがある人もいるでしょう。海外旅行の時差によって影響がある人もいると思いますが、それは誰にでも起きること。そのような「時間的見当識障がい」が病気のためにいつも起きてしまうと安心して生活することができません。

 われわれの今回のことは「場所的見当識障がい」が起きたようなものです。一回だけだとは思いますが、これが2度目になるとボクの心は乱れます。「あれ、もしかしたらボクは病気なのか」と。

  認知症の人の気持ちに沿ったケアや医療が求められている今日、疑似体験を通じて本当に頭が真っ白になり、こころも乱れた灼熱のお盆の一日でした。

 ところで、「認知症の人」という表現が当事者にとって適切なのか、ということが最近の課題になっています。当事者から「認知症の人」と言われることへの抵抗があるというのです。

 ボクも旧病名の差別的な響きを改善して「認知症の人」と表現できるようにしたつもりが、今となっては新たな課題が出てきました。でも、いつになっても改めるべき時には改めましょう。ボクもこれまでの医者の人生で何度も病名や患者さんの呼び名を変えてきました。少しでも人権を守れるようになれば良いですからね。

 論文や学術用語では使いにくいけど、「認知症がある人」とか「認知症と向き合っている人」とか、今後も適切な表現を考えていきたいと思います。


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