2017年4月から朝日新聞デジタル版・アピタルで

「認知症と生きるには」というコラムを執筆中です。

http://www.asahi.com/apital/column/ninchisyou/

​朝日新聞(デジタル版)お知らせ

ブログ
Blogs

日々のこと(5)生きにくさと向き合う

ボクには若いころ「自分が発した言葉で誤解を生んだらどうしよう」と迷いながら言葉を出したら、最も不適切な発言をしてしまい頭を抱えるようなことをくり返した思春期の一時期がありました。講演することが趣味のような今からは考えられないのですが、かつての自分とはずいぶん人生を重ねていくうちに性格が変わったようです。いや、人生を通して何かがボクを変えてくれたのかもしれません。 当時、カトリック教会の仲間の一人で、とても信頼している先輩がいました。その人が専門学校に入るために、今後は大阪を離れて教会には来られなくなるということを知り、悲しくて悲しくて仕方がない一方で、その人に最大のエールを送って自分がこころから応援していることを伝えたくて、思い切って発言してみました。 「せ、先輩、受験ダメだったらいいのに」 その場の空気が凍り付きました。ボクももちろん、受験に失敗してくれたらいいなどと思ったことはありません。精いっぱい、万感の思いを込めて「先輩、これまでありがとうございました。でもボクらはみんな、(たとえは悪いけれど)先輩が受験を失敗してでも、もう1年こちらにいてほしいと思うくらい、あなたがいなくなってしまうことが寂しいんです」と伝えたかったのです。 あれから50年、少しは「言葉足らず」にならずに、皆さんにメッセージを届けられるようになれたでしょうか。 脳に原因があって言葉の表現がうまくいかない人もいます。側から見るだけでは「言葉足らず」に見えても、病気の変化から症状が助長されることがあります。側頭部の抑制が取れて「タガがはずれるようになり」、思ったことを吟味することなく言葉に発してしまうよう

日々のこと(4)祈ること

カトリックの家に生まれました。教会にも行きました。洗礼名も持っています。アンドレアと言います。あんどれあーいっしょうーまつもと、です。 全く海外とは関係ない日本人なのに変でしょ(笑) どの宗教が良いとか優れているとか、そのような宗教論を語るつもりはありません。宗教はその人が背景として生きてきた、いわば文化のようなものだと思っています。最近、町で出会うことが増えたイスラム教徒の皆さんの信仰への真摯な態度に限りない敬意を覚え、日本を作って来た神道や仏教の優れた面に尊敬と共感を覚える自分がいそれでも自分はカトリックを背景として生きてきました。多くの皆さんが(たとえ意識しなくても)檀家さんであるようなものです。 ボクの身の回りには「祈り」がたくさんあふれています。くり返しますが宗教的な話ではありません。その祈りは認知症という病気がメンタル面に影響することがあるため、認知症の人は「その人ではなくなる」とか、「その人が壊れていく」などと言われながら自分と向き合わなければならない日々を送っていると思います。 しかし認知症という病名が持っている負のイメージとは異なり、鮮やかな感性のなかで、ボクは彼らが家族や友人への思いにあふれていることをこれまでの臨床で見てきました。それをうまく表現できないだけなのです。多くの人たちは認知症という自らの病気を受け入れるまでに、何かしら祈りに似た言葉を思い描くのでしょう。 「自分が祈ればこのような病気ではなかったと、神や仏が許してくれないか」という気持ち、そして「誰かに祈ったらこの病気から解放してもらえるだろうか」との願い、そして「目の前の医者はわたしの認知症を