2017年4月から朝日新聞デジタル版・アピタルで

「認知症と生きるには」というコラムを執筆中です。

http://www.asahi.com/apital/column/ninchisyou/

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自分の役割(5)それでも人生にイエスという

認知症とひとくくりに言われても、いくつもの種類があります。アルツハイマー型にはそれの、血管性にはその特徴があり千差万別です。しかも大きく分けると認知症の自分に気づいている人と、気づかない人がいるのも大切なポイントです。ずっと自覚しない人もいれば、通院が長くなるにつれて自覚が進んでくる人もいますから、自覚(病識)の有無だけで門切り型の対応をすることは避けなければなりません。 今でも思い出すのが大阪の南の地域から通院してくれた80歳、アルツハイマー型認知症の女性です。彼女は「自分がうっかりミスをして不安になること」をどこに行って話しても、「まだ大丈夫」と言われることに悩んでいました。もう15年以上前の話です。本人の気持ちによりそって対応することが一般的ではなく、物忘れの程度を診て大丈夫な範囲なら通院もなし、というのが当たり前の時代でした。彼女はかつて大病院の看護師長だった人で、地元の医療機関の先生はそのことを知っていて「あなたのような人は大丈夫」と言い続けたそうです。 ボクがある講演で「初期の人の中には『寄る辺なさ』に悩む人がいて、その人のこころによりそうのも自分たちの役割です」と言っていたことを聞いてくれていました。それから数年間、彼女は電車を乗り継いで診療所に来ました。気分がすぐれない日もありました。通院が面倒になって「やめようかな」と思う日もあります。それでも彼女は「自分の気持ちを共有してくれるあいつに会いに行こう」と思ってくれました。 「認知症の人はものを忘れて自分のこともわからなくなる」といわれることもあります。でもボクの診療所のカルテには来院した人(故人も含めて)の多く

自分の役割 (4)診察のあした

「今日、初診で来られたあの人は緊張していたな」と思うことがよくあります。当たり前でしょうね、初めて医者にかかるときには誰だって緊張しますから。認知症とひとくくりで言われても様々な形のものがあるのは、みなさんも聞かれたことがあるでしょう。例えばアルツハイマー型ならどういった特徴があるか、血管性認知症はどう異なるのか、などと病気の形によって出てくる症状や経過に違いがあるのは新聞やテレビ、ラジオの報道でご存知かもしれませんね。 ボクも専門医として「診断」します。どういった種類の認知症かをしっかりと見極めるために大きく分けると3つの検査が中心です。まず頭部のMRIをはじめとする画像診断です。これによって脳の変化の具合を見ていくことで、その人の「不都合な状態」を見つけることができます。言葉を話すところの脳が変化していれば、「あ、この人は話したくても言葉が出てこないつらさがあるだろう」と推察できます。 次に各種の検査です。テストをしてもらっておおよその点数から診断をすすめます。でもね、この時にテストを受けるご本人が緊張しすぎると正しいレベルがわかりませんので、1回だけで結論付けるのは控えています。 3つ目は(これがもっとも大切ですが)目の前に「患者さん」として座っている人の症状やしぐさを通して、その人を診る「症候学的検査」です。医学用語は難しいのが多いけれど…、簡単に言うと「その人」と話をし、お会いした印象から診断を付けることです。この3つがしっかりとイメージできれば自分としても「診断がついた」と思うのですが、時には勘違いの診断もあります。後で病名が変わることもあり、そんな時には患者さんと

自分の役割(3)3つの立場

精神科医として認知症の人や家族と寄りそいたいと願い臨床を続けてきましたが、いつも3つの役割を考えています。第1の最も大切な役割は日々の診療です。開業医として何よりも毎日の現場での診療が大切です。次に大学や大学院での講義と各地域での講演で、第2の臨床と考えています。診療室では限られた人の診療しかできませんが、講演などを通じて多くの人に知ってもらうことで認知症の理解が広がります。第3は研究や執筆です。ボクはたいした研究や論文などは書けませんが、患者さんや家族のカルテから(人権面や守秘を徹底しつつ)研究ができる臨床家としての役割を果たしたいと思うからです。 そして今回、4つ目の役割として妻の食事をはじめとする介護が加わりました。先の日曜日はその典型のような一日でした。朝起きて昼ごはん、夕ご飯を(簡単に)作ってから大阪(伊丹)空港に行き、函館に飛んで認知症フレンドシップクラブ主催の講師をし、午後4時の便で函館から札幌経由で大阪に戻ってきました。新千歳空港の20分の乗り継ぎ時間を含めて北海道にいたのは数時間。介護の制約の中でもできる限り講演活動を続けていくつもりです。 北海道の皆さんはいつも暖かくボクを迎えてくれます。妻の介護が始まる前には年間100講演で全国を飛び回ったこともありました。今では妻の夕食か入浴までに戻れるところに限定されてしまいましたが、それでも30~40講演には出かけることにしています。呼んでいただけるのはとてもありがたいです。「まだ診療とケアだけではない役割がある」と実感できますからね。 しかし、もともと体力と根性のない医者なので診療を休んで患者さんご家族に迷惑をおか

自分の役割(2)自分と向きあうとき

妻が母親を見送った時、ちょっと気になる発言をしました。「やっと終わった」という一言です。「マズいな」って思いました。27年にわたる介護者から解放されたとき、あまりにも一気に解き放たれると、体の不調が表面化するのは精神科医のボクにはわかること。それが2013年でした。札幌の講演から帰る途中で妻が(自宅のある京都で)発作を起こし搬送されたことがわかり、その後、妻は「料理ができない、味わからない」という状況になりました。ボクの介護者としての人生の始まりです。 妻の母の介護・実際のケアは妻がやっていました。長年の介護による過剰ストレスから一気に解放されたことで、妻の体には訴えや不都合があふれだしました。まるでこれまで内側に潜めていた「生きるエネルギー」が介護を終えて目標を見失い、自分の体の「不都合なところ」に集中したかのように気分の沈みやこだわり、パーキンソン症状が襲いかかり、ボクは今回はじめて本当の意味で介護者になることになりました。 さあ、妻の病気・自分との闘いです。これまでの生活が180度変わってしまうのですから、自分がふらふらしていてはいけないはずです。でもボクにはその覚悟がありませんでした。これまでの診察場面でも患者さんの家族から「先生、今回の○○の介護で私は人生をあきらめなければならないと思います。」と悔しそうに告白されたことが何度もありました。 でも、そんな時、ボクは「当たり前じゃないか、家族の介護が始まったのだから」なんて冷たく考えていた自分を思い出しました。専門医としての意見は言えても、自分が介護の真っただ中にいる人の不安や絶望には、本当の意味での共感を示していない自

自分の役割(1)ケアする我らの旅

これまで25年近く精神科医として認知症の人と家族を支援するのが自分の役割であり、また生業としての医業だと思ってきました。その過程で自らの家族をも介護者として支えてきたこともあります。 妻もボクも一人っ子なので「お互いの親は看よう」と結婚する時から決めていました。だから妻の父があっという間に胃がんで亡くなり、その後、気分が沈み体の悪いところに気持ちが集中してしまう妻の母を呼び寄せて27年間(そのうち20年間は自宅で介護)ケアをしました。 うちの父は69歳であっという間に心筋梗塞で逝き、妻の母の介護が終わりに近づいたころ、それと重なるようにボクの母親に手おくれの大腸がんが見つかりました。母は内科医です。「最期まで現場に立つ」との決意を聞いて、ボクは3年半、闘病に付き合いました。それが終わったのが2011年、東日本大震災の年です。 母の介護が終わった時に、今の自分の姿は考えられませんでした。「これでしばらく自分がやりたいことができる」と思ったのを覚えています。でも、人生はそのような考えとは全く異なる役割を、ボクに求めてきたようです。新たな役割は「妻を介護する夫」としてのものでした。 人は常に自らがが置かれた立場の自分を生き抜くことが大切であることは、よくわかっていたつもりでした。しかし、これまでとは全く異なる方向に人生が舵を切ろうとするときには、やはり迷いがあるものです。多くの介護家族が同じような気持ちを持ちながら介護の日々を続けているのでしょう。その場面は突然に現れて、有無を言わさずにこれまでの人生を180度変えなければならなくなります。 多くの人はその変化を受け入れることができず