生きる場所(2)クリスマス後の鼻かぜ

若かったころクリスマスイブにはカトリック教会で深夜のミサがありました。キリストが生まれた真夜中、すなわち25日になろうとする深夜に、毎年、ミサがあったのです。今のように休日に合わせて日をずらすこともなく、24日の夜は24日の夜、次の日に会社があろうと学校でテストが控えていようと、クリスマスの深夜には教会に集まって深夜ミサに参加したものでした。 だからわれわれ青年会(うわ、古っ!)は朝からだしを昆布でとり、数百人分のうどんとそばを準備して協会に来る信者さんのために、毎年、準備をしていました。そのうどん屋(蕎麦屋)のイベントが終わり、しかも次の日になって食中毒などもなかったことを確認すると、ボクはほっとして熱を出したり、ひどい鼻風邪をひいたりした思い出があります。その後、精神科医になり介護家族のストレスを研究するようになった大きな原因なのかもしれません。 5年ほど前、まだ、妻の介護をするようになって、どこに行くのも日帰りにしなければならなくなる前の年のクリスマスのころですが、ちょうどシンガポールの研究会に出かけたときにもウイルス性の半風邪をひいてしまいました。その夜、(風邪で)ちょっと気が進みませんでしたがクリスマスイブなので、ホテルの人に「地域のカテドラル(大聖堂)では深夜のクリスマスミサはないの?」と聞いたところ、親切にも丁寧に調べてくれました(余談ですが、そのホテルの京都店の横のマンションに今住んでいますが、本当に良いホテルです。でも、ボクには高すぎてジントニック1杯も飲みに行けやしない。隣だぞ、となり、それなのにいけないとは情けない)。まあ、愚痴はそのあたりにして、そこでも

生きる場所(1)晩秋の転居で見えたもの

いろいろな経過があり一概には言えませんが、その人が生きる場所によって認知症の状態像が変わることはよく知られています。妻は認知症ではないけれど、この5年弱の期間を「不自由」に過ごしてきました。退院時に京都の自宅で昼間を一人で過ごすことができず、不安のために仕方なく大阪の診療所の上階で介護し始めたときの戸惑いは今でもボクの脳裏によみがえってきます。妻も同じように、いやもっと不安を抱きながら大阪の生活に入っていったことでしょう。そして月日が流れました。振り返ってみると5年弱という期間は長かったけれど、過ぎてしまえば早かったとも言えるような、不思議な時間でした。 その生活に限界を感じたのはボクのほうで、朝起きてから妻の食事の準備をして(大したことはしていませんが)、その後、階下の診療所に降りて行って情報提供書や、介護保険の主治医意見書(ボクは精神科の専門医なので、本当は「かかりつけ医」になる立場ではありません。しかし、意見書についてはメンタル面を書かなければならない人もいるため、要望に応じて書いている場合もあります)を2時間弱書き、その後、診療を続けて午後3時ごろには夕食の買い出しに行く‥‥、夕食が終われば午後8時半には風呂の準備、前にも書いたようにどこまで講演に出かけても、その日の夕食に間に合う範囲でしか出かけられず、家を空けて泊りがけでどこかに行くことなど考えられないような毎日‥‥を送ることに疲れました。 今年の夏は日本中どこにいる人でも「暑かった!」と思いますよね。その暑さの中で患者さんの多くが体調を崩し、その対応をしていたボクも体調を崩し、結果的に「思い切っていっそのこと京都に

仲間として(10)最後の砦

これまで本当に入居者のために良くやってくれた、関西のある施設が(今年度末ごろ?)その役目を終えることになりました。事業を起こすときのエネルギーを得ることは比較的に簡単です。ボクもかつて平成5年から12年まで(1993~2000)、当時はまだ珍しかった「老人デイケア」を開き、スタートするときはよかったのですが、介護保険の開始を見定めて役割の限界を感じ、その後、閉鎖した経緯があります。始めるときは不安の一方でわくわく感もあります。「うまくいくか、資金繰りはどうか」経営の素人が、それでも何かケアにかかわることを始めたいと試行錯誤した7年間でした。 そしていくつもの診療科で大人数になった診療所(アルバイトも入れて50人超え)を、その後の何年かをかけて少しずつ縮小して、現在の5名体制にするまで縮小しました。ボクは縮小して専門的な外来にしたと思っていますが、人によっては「先代と比べると、えらいちっこく衰退したんやなあ…」という人もいて、複雑な気持ちにもなりますが。 職員の生活を保障し、人生をかけて診療所に勤めてくれた人たちが、たとえうちの診療所を退職しても、その後、気軽に「やあ」と訪れられるような退職、再就職を目指して、組織を縮小するということは拡大することの何倍も努力が必要であると学んできた20年弱でした。 でも、ここまで読んで何か違和感を感じませんでしたか?そうですよね、利用者さんのことを全然書いていません。組織の職員や「提供する側」のことしか書いていませんから。 老人デイケアを閉じるとき、本当に苦心したのは、利用者(うちは診療所デイケアだったので患者さん)と家族が日々の支えとして来て

仲間として(9)引っ越しおっかなびっくり

京都に戻ったのが11月4日、それ以降、おっかなびっくりで過ごしました。「もし、無理なら大阪の診療所上階に戻る」と覚悟してから1か月弱、賭けのような決断をしたにもかかわらず(奇跡的に)妻は落ち着いています。自宅には戻れないけれど街中のマンションなら隣近所にもそれほど気を使わなくて良いためか、安心したような感じで、ボクは胸をなでおろしています。 ブログを読んでくれている人の中には「最近、あれほど書いていたブログの更新が少ないな」と思った鋭い人がいたかもしれません。そう、そのとおりです。更新できないほど引っ越しに忙しく、日々の診療さえ制限されてしまったほどでした。この歳になると新しいことに向かう気力が衰えてくるのかもしれませんが、ボクの場合は「引っ越しがうまくいかず、最初からやり直すことになったらどうしよう」という恐怖感と向き合うことが大変でした。30年も京都にいて、妻の入院後には大阪での生活を始めたはずですが、その時は無我夢中で、ただ、そうせざるを得なかったのだと思います。何も手をつけずに京都の自宅を「そのまま」にして、大阪の生活リズムを作ることが精一杯だったことを今更ながら思い出します。 今回の引っ越しを経験して思うことがあります。今ここで「何とかなっている」ことを、あえて変更してまで改善するには、思ったよりも多くのエネルギーが必要であり、それに伴う経済的な負担も計り知れません。それでもなお、前に向かっていくのには大きな決心がいるのだということに、改めて気づかされました。今回の引っ越しが何とかなったのは、娘と息子の協力、診療所の仲間の理解があってこそでした。 仲間として今回メッセ