仲間として(7)働く介護者のなかまへ

この9月には京都の自宅にいられなくなった妻を大阪の診療所上階に移して、ボクなりの介護を始めて5年目に入りました。 これまで1991年に医者になり、1998年に専門書の分担執筆を依頼されてから20年間に論文、執筆(単著も分担執筆も)を合わせ71の論文を書きました(現在、日本精神神経学会の特集論文は査読中です)。講演会も1995年から数えると来年1月に大阪府のご依頼をいただいた研修会で2136回になります。 たくさん仕事をしたと自慢したくて書いているのではありません。かつて書いたように、ボクの医者としての役割の中で日々の臨床と並んで大切にしてきたのが、大学院や大学で教鞭をとること、執筆を通して認知症を知ってもらうこと、そして地域理解のための講演、この3本柱がボクの大きな役割と思い続けてきたからです。 しかし妻の介護によって、講演に行ける所には限界ができました。朝、大阪を出て講演し、夕食には大阪に戻る範囲しか講演には行けません。論文や本の執筆も年にいくつも書くことができなくなってしまいました(研究時間が減るだけでなく研究への前向きの気持ちも減りました)。 実際、買い出しを考えれば午後の早い時点で診療を終えると往診も買い出しもスムーズに行きますが、その分、初診の患者さんに待っていただく日々が長くなり、医療法人の経営を担当する理事長とすれば収入も減りますから、仕事と介護のバランスをいつも取り続けることは、とてもエネルギーのいる仕事なのだと、改めて思います。 先日も親の介護のために会社を辞めるといった若い介護者(息子さん)を何度も説得し、「仕事は軽減して続け、介護も人の力を借りながら続ける

仲間として(6)炎天下の地下鉄、駅を迷う

8月のお盆休みが終わりに近づいたころ、ボクは妻の食事の買い出しもあり、妻が(旅行はもちろん)どこにも行けないために長い休みを取ることなく、毎日、往診して炎天下にいました。娘が買い出しのほとんどをしてくれて、こころから感謝!です。 ちょっと買い物に行っても、お盆の期間はみなさん家族で買い出しに来ている人も多いようで、その日に行ったショッピングモールも家族連れでいっぱい、「楽しそうだな~」と思いながら買い出しを済ませました。 買い物が済んで地下鉄に乗り、ふと前を見ると知り合いの地域包括支援センターの職員さんが座っていました。お盆でもカレンダー通りに勤務があるのでしょう。ひとつ前の駅で声をかけて買い出しに行っていたことを話していると、その職員さんも朝から介護関係の研修に行っておられたとのこと、お互いに長い休みはとれない仕事に就いていることを実感しました。 話がはずんで地下鉄を降り、エスカレータを上って地上にでたとたん、「あれ、この風景は?」と、頭が混乱していることに気づきました。「この風景はいつも見る地下鉄の駅だ」、「でも、どこか違う」、地下鉄の駅はひとつの線で同じような造りになっていますよね。ボクと 彼はその「あたりまえ」の風景の一部が違っていた事で、頭の中が一瞬、真っ白になりました。出口を出たところで、ここが目的の駅ではなくひとつ前の駅であり、われわれ二人は話に夢中になっていて間違えたのです。 これは、と思いました。 認知症が進んでくると見当識障がいが出てくるものです。時間と場所を「見当つける」ことが見当識なのですが、そこがあやふやになってくる人がいます。 寝起きに時間がわからな

仲間として(5)8月12日、33年目の日本航空

今日は33年目の日航ジャンボ機の追悼の日です。きょうはボクの体調が優れず、本当なら北海道に行くはずを「休養してください」とのお言葉に甘えて、大阪にいるはずだったのに、東京でどうしても対応しなければならない事があって、日帰りで出かけてきました。 33年前の今日、ボクは関西医大の病室にいるオヤジと話していました。父は日本歯科医師会の役をいただいていた時、週1回の割合で東京に行っていたため、日航機の墜落をより身近に感じていました。「おれがいつも乗っていた飛行機や」と絶句した父はその時、糖尿病と闘いながら歯科医として診療を続けていたのですが、免疫低下のためにヘルペス(帯状疱疹)を発症し、その後のヘルペス後疼痛(神経の痛みです)に耐えかねて、鎮痛剤を大量に服用して胃潰瘍になり、倒れて関西医大に入院させてもらっていたのでした。 (内科医だった)母とボクは、「アホなオヤジやな」とあざ笑っていましたが、いえいえ、父の足に残った痛みはそれほどつらかったのだと思います。 その病室で日航機の事を知りました。父の知り合いの先生のご家族もあの時に亡くなられました。父も泣いていました。多くのご遺族にとって、今日は鎮魂と祈りの日です。 ボクは父が日本航空をこよなく愛したため、その想いを受け継いで、いつも日本航空を利用するようにしています。今日も2Aの席に乗っていました。 いつものことながら、出発準備が整って駐機場から飛行機が動き始めるときに、整備のみなさんがこちらに手を振ってくれます。見送ってくれることへの感謝を込めて、ボクも必ず窓から一礼することにしています(周囲に知られないように、そっとですが。ブログに

仲間として(4)女性が医学部落ちるなんて!

ボクは歯科医師になるときにも、医師になるときにも、多くの人の「温情」を受けてきたと思います。歯科医師になるために大阪歯科大学に入れてもらった1975年、医師になり直すときに最後の最後に合格させてもらった1984年、いずれも両親が学費を出してくれただけではなく、無謀なボクを理解しようと努めてくれた「温情」でした。だからこそ、自分が受けた恩は医師となった今、できる限り患者さんとして来てくれる人々や、その人を介護する家族の人の事を考えた臨床にしたい、と思っています。 うちは母の母が(臨時ではありましたが)教員を務め、母は自分の意志で医師になると決意し、女学校から一人で神戸生活を始めました。その後、入学したのが大阪高等女子医学専門学校、今の関西医科大学です。戦後は男女共学になりましたが、女子の医学教育を目指して作られた東京女子医大などとともに、「これからの時代、女性医師の必要性」を痛感したためにできた学校でした。ボクも医学部に入学するときには迷わず母の母校を選びました。そんな志がある学校で医学を学べるなんて、なんて幸せな事かとも思いました。 大学生活でも、その後、研修医になっても常に女性医師が指導してくれ、医療の世界に女性がいることがあたりまえの生活を続けて、ボクの人生は社会に役立ちたいと願う女性によって支えられたと言っても過言ではありません。 現在の最も親しいフィールドである介護の世界でも女性の活躍なくして介護保険の18年は成り立たなかったことは、誰の目にも明白です。 最近の報道で「女性は医療の場にいなくなるから合格率を下げた」というある大学の事を知りました。昔から尊敬する大学でした

仲間として(3)酷暑日とホロコースト記念碑

関西は連日のように36度、37度…、8月6日は73回目の広島の日でした。いつも式典に参加される人たちが脱水にならないか心配しながら記念式典をテレビで見ている立場ですが、今年は西日本の豪雨の後、急激に暑くなって患者さん、介護家族とともに大変な状況でした。患者さんも心配ですが介護をしている家族が体調を崩している夏だからです。ボクもこのところ体調はすぐれません。暑くて往診に行っても頭痛がしてきて「ね、熱中症…」の毎日です。 そんな暑さから逃れて妻の夕食の惣菜の買い出しを天満橋の京阪シティモールですませて、上階にある本屋さんに行きました。以前から読書はある程度するタイプなので、「久しぶりに詩の本を買おう」と思いました。これまでに何冊か買ったことがある長田弘さんの詩集、「奇跡」を買って帰りました。 読んでいるとベルリンの詩が書いてありましたが、読み進めるうちに「あ、ここ…」と思い当たる所が出てきました。 その場所を訪れたのは2006年、国際アルツハイマー病協会の国際会議がベルリンで開かれ、「認知症の人と家族の会」が日本アルツハイマー病協会として参加し、ボクは当時、国際交流委員として参加しました。 ホテルがブランデンブルグ門(東西冷戦をよく知っている人には忘れられない場所でですね)に近く、そこから歩いてすぐのところに、その「場所」はありました。 灰色の、長方形のコンクリートの立方体がいくつもいくつも続く、独特な雰囲気、畏怖を覚えるようなその光景を見たとたんに、これが持つ意味を感じ取りました。ドイツで起きた最悪の歴史、ユダヤ人の記念碑なのだろう、と。 でも、その時には誰にも聞かず、本から知識