日々を生きる(1)ある思い

人生を送って60年が過ぎたなんて信じられません。今でも15歳の時のボクの気持ちは生き生きと思い出すことができます。「かつての青春の良き時代の思い出」なんてありません。いつも…いつでも今のボクが青春を生きています。傲慢でしょうか、自分だけ老い込まないと思いたい還暦の人間の強がりでしょうか。いいえ、ボクは自分の気持ちにおいて、何かに対する思いが尽きることがなければ、その人はまだ青春を生きていると確信しているからです。担当する認知症の人々を見ていても、その人の「こころのありよう」が、その後の経過を大きく左右することがわかり、人間はそれほどまでに精神的な存在なのだと気づかされます。 ある思い、たとえばそれは誰か人への気持ちでしょうか、何か大切な使命やこころざしへの熱情でしょうか、さまざまなものがあります。誰かに対する気持ち、あきらめきれない情熱への想い、誰かのために人生を送ろうと覚悟した想い、どんな思いでも尽きることがない想いが続く限り、その人はまだこの先に人格の成長の可能性を考えることができます。「生涯発達の心理学」の助けを借りなくても、私たちの気持ちはまだまだ上向きになることができます。 妻の介護でこの先の人生をすべて奪い去られたような気持になっていた3年前と、今の気持ちにそう大きな変わりはないかもしれません。でも、絶望に生きていた3年前のボクは被害者意識の塊でした。それを何とか克服しようと、毎日の診療、往診、その後に妻の惣菜を買いに行く日々を続けてきました。 数日前、かつての知人と会う機会を得ました。その人と同時代を生きることが輝いていた同志です。今では異なる道を選びましたが「な

診療にて(10)医介連携の原則(母の命日)

6月12日は内科医だった母の命日です。亡くなる1か月半前まで診療を続けた母はその3年半前に盲腸からはじまったがんがお腹中にひろがって、気づいた時には手遅れになっていました。それでも「できる限り現場に立つ」と言い続けました。その母を見送って、今日でちょうど6年たちました。 生前の母は今でいう「医介連携」を重視していました。ボクも常日頃から「介護と医療が連携することが大切」だと言い続けています。かつて診療所に老人デイケアを作り、実践した7年間がありました。平成5年から始めましたので、今では当たり前のようになった医療機関+ケアを早く始めた診療所の一つだったと思います。 そこで気づいたことがありました。それは認知症の悪化防止の観点からみると、ケアの力でその人が安定することで、認知症事態の悪化を遅らせることができるという結果から得られた実践に基づいたエビデンス(実証)の結果でした。「介護の情報をできるだけもらい、それをもとに医療としての役割が果たせれば、結果的には薬の少量さえ減らすことができる」と確信したのでした。 それでも介護だけではカバーしきれないことが起きれば、医療としては少量の服薬という方法をもって介護をカバーすることができます。薬というと悪者にされがちですが、どっこいそんなことばかりではありません。できる限り少ない種類の薬を少量処方しながら、介護側の力も借りて安定を図ること、それが究極の「医介連携」になるはずです。 そこに必要なのはお互いに対する信頼感です。医療が介護から積極的に情報をもらうことで日々の生活を知れば、必要な薬や治療方法がおのずと見えてきます。医療側が介護からの情

診療にて(9)番外編:4年目が来るぞ

毎年この季節になると思い出すことがあります。妻の母親をボクの京都の自宅に呼び寄せて在宅介護した20年+入所してからの7年間、ひとりっ子同士で結婚した妻とボクはほとんど親戚がなく、妻は一人で母親を介護しました。妻の母親は4月に体調を崩すことが年中行事のようになっていました…。そして妻ですが、忘れもしない2014年のゴールデンウィークあたりから調子を崩し、夏に向かってこだわりが増えました。 「食欲が出ない。味がわからない」と訴えるため、自宅での食事をあきらめ、二人で外食をした時もつらい思い出です。梅雨から夏にかけてこだわりや強迫性が強くなり、介護保険のサービスのうちで人と接する面でのケアを受け入れてくれるのは、ホームヘルパーさんとの朝の散歩だけです。外出は15分ほど歩くと、その後は「歩けなく」なってしまいますが、家の中では過ごせます。 若いこともあってデイサービスやショートステイを活用する気が本人にはありません。かたくなに拒否します。ボクからするとせめて1泊でもできると全国からの講演依頼をお断りしなくても良いのですが、夕食時に妻が不安になるため帰りが遅くなることを受け入れません。ボクは北海道に行こうが、沖縄の日本認知症ケア学会のシンポジウムに招かれようとも、必ず(夕食ごろまでに)日帰りしなければならなくなっています。それでも診療所の事務的なことには意見も出せるため職員として在籍していることが唯一の慰めかもしれません。 2014年の9月、ボクは北海道の砂川で「行方知れず(徘徊)模擬訓練の講師として招かれていました。その時、ボクを呼んでくれたみなさんの前で「明日から診療所(上階の元実家